2019/08/31

昼ご飯をお腹いっぱい食べたために、私は急速に眠気を感じ始めていた。
もちろん昼ご飯をお腹いっぱい食べたことだけが、眠気を感じている原因だとは限らない。それどころか昼食と眠気には何も因果関係がない可能性さえあるのだ。
ご飯を腹いっぱい食べたら必ず眠くなるのだとすれば、昼休み後の午後のオフィスはすやすやという寝息や、グーグーといういびきの音に包まれた仮眠室のような空間に変わり果ててしまう。
そんな空間はもはやオフィスとしての機能を喪失している。上司や同僚がむにゃむにゃと寝言をつぶやいている横では、誰もまともに労働する気力など湧かないだろう。
長く停滞し今後も浮上する見込みのない日本経済が、そんな真昼間から寝静まった呑気なオフィスに居場所を与えてくれるとは、到底思えないのだ。
だからそんなオフィスがもし実在していたとしても、とっくにこの世から抹消されていることが予想される。
つまりきわめて現実味の薄い与太話に過ぎず、こんな話は即刻打ち切って本題に返らなければなるまい。
だが私の眠気はすでに限界の域に達しており、この先を書き綴ることはもはや困難になりつつあった。
眠たさの原因は昼ご飯をお腹いっぱい食べたことなのだが、もちろんそれだけが眠気の原因であるとは限らない。
人はとくにこれといった理由もなく睡魔に襲われることがあるのだ。

2019/08/30

わが家の近くには小さなトンネルがある。抜けるのに三十秒もかからないほどの短さだが、そのトンネルをくぐった後は映画を一本見てきたかのような充実感が味わえた。
べつにトンネルの壁に映像が投影されていたり、ラスコー洞窟のように壁画などが描かれているわけではない。ただの薄暗い、長時間滞在したら気が滅入ることが確実な空間にすぎない。
にもかかわらず、私は通り抜けるたびに様々な感情とその変化を経験し、しかもその都度経験される感情の内容が異なっているのだ。
だからトンネルを抜けるたびに映画を一本見た気分になるだけでなく、その映画は毎回新作で、以前と同じ映画が一本もないのである。
だが、文系のインテリである私に云えるのはここまでだ。この先の真相究明には理系の知性の協力が不可欠だと感じた私は、近所の理系の大学に通う学生らしき若い男をコンビニで見つけると、事情を話して現地まで同行してもらった。
「なるほど、これは興味深いトンネルだ……」
さっそくトンネル内を何往復かしてきた男は感慨深げに腕を組んでそうつぶやいた。
「通り抜けるたびに何か別種の経験をしているという感覚が、確かにありますね。例えるなら、総武線の各駅停車に乗って出かけた秋葉原から、内回りの山手線に乗って帰ってきたかのような感覚です。そしてもう一度通り抜けるときは外回りの山手線になっていて、帰りは岩本町まで歩いてそこから都営新宿線なんですよ」
男の話を聞きながら私は軽いショックを受け、しだいに気分が重く沈んでいくのを感じた。
彼の的確な電車の例えと較べれば、私の例えはきわめて曖昧なうえに、映画といういかにも文系人間が趣味を誇示しがちなジャンルに閉じこもることで、周囲に何らかの目配せをしていることが感じられる。
いわば「わかる奴だけにわかればいい」という内輪向けの態度が露骨なのだ。
「こんなことだから文系不要論といった耳の痛い世論がネットをにぎわせることになるのだろう。やはり文系側からもっと社会に対して開かれた情報発信をするべきであり、難解で気取った雰囲気のアート系映画ばかり持て囃すのを即刻中止し、家族みんなで楽しめる動物の出てくるアニメなどについて積極的に語るべきではないだろうか?」
そのように口に出して云ってみると、たちまち視界が晴れ渡るようにすっきりするのがわかった。
私はトンネル調査を続ける男をその場に残して、楽しげにどこかへと走り去った。

2019/08/29

古い知人であるA氏が個展を開くという案内が届いていた。
さっそくギャラリーを訪れてみると、品のいい室内に展示された絵はいずれもA氏らしい個性のみられる鮮烈なもので、私は時の経つのも忘れて絵の世界に没入してしまった。
A氏の絵にはどれも何らかの生き物が描かれている。それは蟻から鯨まで、大小さまざまな生物がどこか優しい視線を感じさせるタッチでくっきりとキャンバスにうつしとられたものだ。
「こんな素晴らしい絵を飾るのにふさわしい部屋に、できれば私も住みたいものだ。今のボロアパートの壁に飾ったのでは、せっかくの傑作も中学生が美術部の活動で描いた絵と大差ないように見えてしまう」
もしもどこかの湖畔などに別荘を持つことがあれば、その壁に飾るのにもっともふさわしいのはどの絵だろう? いつしか私はそんな目で作品を比較し始めていた。
「こちらのライオンの絵は、留守にしがちな別荘の番をさせておくにふさわしいような気がする。だが、湖畔という立地を考慮するとこの亀の絵も捨てがたいと思える」
私は次々と目移りしていく絵たちのすばらしさに嬉しい悲鳴を上げ、驚いたギャラリーの従業員があわてて様子を見にくるというハプニングも発生した。
「やれやれ、どうやら早急に結論を出すことは不可能なようだ。今日のところはいったん帰宅し、次にこの場を訪れるまでの宿題としておこう」
そう考えて私はギャラリーを後にしたのだが、その後A氏の個展のことはすっかり忘れてしまい、今日思い出してギャラリーを再訪してみたところ既に展示は終了していた。
だがかわりに始まっていた別な作家の個展が非常に魅力的な作品ばかりで、
「やはり別荘を手に入れたときはA氏の絵ではなく、この作家の絵を飾ることにしよう」
さっそく私はそう心に決めたのだった。

2019/08/28

この社会では毎日さまざまな場所で誰かが働き、また別の誰かは休暇を取ったり、休憩時間に入るなどして交替で世の中を支えていると云われている。
私のような、大きく分けてインテリに分類されるタイプの人間はそうした世の中の営みの中では、まるで一年中休暇を取っている結構なご身分だと勘違いされやすい。
むろん、私が公園のベンチに座って目を閉じ、気持ちいいそよ風に吹かれているのは別に昼寝をしているわけではなく、我々がどれだけ努力しても逃れられないこの世の苦しみを、少しでも軽減させる方法を求めて真実への思索の旅に出ているのだ。
「だが、今日もまたこの旅は徒労に終わったようだ。それでもひとつひとつ道を塗りつぶしていくような地道な努力を続けなくては、未来の人々へ手渡すべきバトンを途中で投げ捨ててしまうも同然なのだ」
そう神妙につぶやきながら腰を上げると、辺りはすっかり暗くなっており、目を閉じていたときと景色はさほど変わりがない。
そこへ誰かが散歩させているらしい一匹の小犬が、尾を振りながら近づいてくるのが見えた。
あまりにも可愛らしい小犬だったため、いったいどんな人が飼い主なのだろう? きっと心優しくて可愛いものが大好きな人物なのだと思い、興味津々で視線を向けた。
だが長く伸びたリードはまるで凧揚げの糸のようにまっすぐ公園の外へとのびて、そのまま闇の中へ消えていた。
「この犬の飼い主は可愛い犬を飼うような人ではあるが、散歩へ連れていくのが面倒なばかりにとても長く伸びるリードを入手し、家の中にいるままで犬を散歩させているのかもしれない。だとすれば、その人は可愛い物好きではあっても、けっして心優しいとは云えないだろう。それらの美質は、一人の人間に同居しているとは限らないのだ……」
私はそう考えた途端に、目の前で尾を振る小犬までがなんとなく汚らわしく思えてきて、そのまま頭を撫でたりすることなく無視して公園を出ていった。
今にして思えば、大人げない行動だったと思わないでもないが。

2019/08/27

どこか高い塔のような場所に登って、そこから世界を見渡したいという欲望が、あなたにはないだろうか?
私にはある。それがどんな辺鄙な場所にある塔だとしても、そこから世界が見渡せるなら電車やバスを乗り継ぎ、最後には徒歩で山道を歩いてでもたどり着きたいという気持ちがあるのだ。
だがそんな辺鄙な場所にある塔は、どれほど高くとも周囲の景色は単調で、いくら眺めがいいとはいえ、何もかもが遠くにありすぎて意味がないということにもなりかねない。
だからやはり登るべき塔は都会とまでは云わずとも、都心から電車で一時間以内の場所にあるのが望ましいような気がする。
そんな塔になら、わざわざ早起きして出かけてでも、日没まで心ゆくまでそこから世界を見渡したいというのが偽らざる本音だ。
みなさんもそんな私の気持ちを理解して、賛同してもらえるような気がするが、
「それなら、休みの日に駅などで待ち合わせて一緒に塔に登りましょう」
などと提案する気持ちになれるかというと、なかなかそうはいかないのが現実だ。
やはり「高い塔から世界を見渡す」という経験は、大勢で押しかけてわいわいと騒ぎながらするものだとは、どうしても思えない。一人で展望台に立って、無言でじっと眺めるのがふさわしいということはどうしても譲れない点だ。
だからこちらから質問しておいて大変申し訳ないのだが、高い塔に登ってそこから世界を見渡したいという欲望をあなたがお持ちの場合、
「勝手に登って、眺めて下さい」
としか私からは云うことができない。
そのことが今は心苦しく、窓の景色もどこか物憂げに見えてしまう。

2019/08/26

あでやかに着飾った人々が、道を繁華街のほうへと歩いていくのが見える。ただでさえ人の多い繁華街では、なぜかさらに人を集めるようなイベントが盛んに行われるようだ。だから着飾った人たちが田畑や空き地の多い方角とは反対方向へ歩いていくのは、いつもの見慣れた光景だと云える。
たしかに、田畑や空き地の多い方角へと着飾った人の群れが移動していた場合、人は落ち着かない気持ちになるものだ。人の少ない土地だからこそ、人を集めたいという願いからなけなしの知恵と予算を集めてイベントを敢行し、それが成功したなら喜ばしいことのはずだ。だが私たちは心のどこかで、賑やかな繁華街がさらに賑やかになることを願い、寂れた土地は寂れたままでいてほしいと願っているのかもしれない。
心の中にいったん書き上げられた地図が、むやみに書き換えられることを人は好まない。そんなことをすれば気分がそわそわして、寄る辺ないような気持ちになってしまう。それがいくら正しい変化の道筋だとわかっていても、人々が新たな道への一歩を踏み出すことを躊躇してしまう理由がここにある。毎日部屋の模様替えをしていたら精神的に不安定になってしまい、生活に支障をきたすことを我々は本能的に察知しているのだ。
たしかに、あんな着飾った人たちがわが家の周辺をたむろしていたら、私はジャージ姿でコンビニへ弁当を買いに行くことに羞恥を覚え、やがて食料が尽きて餓死してしまうだろう。そう思えばなんとなくこの世の地図が今日も昨日と変わらぬ配置に収まっていることに、ほっと一安心していることを否定はしきれない。
つまり私もまた、寂れた土地が寂れたまま見捨てられていくことを無意識に望んでいる人々の一員なのだ。
そう思うとどっと疲労が押し寄せてきて、私は床に水たまりのように横たわって眠りつづけた。
やがて目が覚めるとすっかり元気になっていた私は、台所で焼きそばを調理し始めた。

2019/08/25

買い物に行こうと思って玄関を出たところ、思いのほか天気が良くないようで先ほど干したばかりの洗濯物のことが気になった。
「これでは外出中にひと雨きてもおかしくないぞ。洗濯物は室内に移動させておくべきだろうか? だがそれでは、いくらまだ夏が続いているとはいえ、乾くまでの時間が遅れて洗濯物に雑菌が繁殖し、いやな臭いを発し始めてしまうかもしれない。そんなことは御免だが、雨に濡れた場合は乾く時間はさらに先延ばしになるわけだ。なんとも悩ましい話だ……」
私は考えごとに夢中になっていたため、道の真ん中に立ち止まって周囲のことが全く目に入らなくなっていたらしい。
そこへ猛スピードで突っ込んできたトラックがいたからたまらない。おそらく運転手は運転しながらスマホでかわいらしい動物の動画などを眺めていたのだろう。その動物愛護精神があだとなり、トラックは私を空高く跳ね飛ばしたのだ。
だが、これははたして偶然なのだろうか? それとも迷う私に何か超越的な存在が答えを差し出してくれたのかもしれないが、私はちょうどアパートの軒先の自分の洗濯物の前にまるで体操選手のように着地したのだった。
そこへぽつぽつと、懸念していた雨が落ち始めた。私はあわてて洗濯物を取り込むと、抱えて部屋の中へと飛び込んだ。
「少しでも雨の心配があるときは洗濯物は室内に干すべきだ。そのためにも部屋干し用の洗剤を今度から買っておくべきだと、あの動物好きな運転手は私に伝えたかったのかもしれない。いささかその伝え方が強引ではあったが……」
私はあちこち痛む体をさすりながらそうつぶやいた。

2019/08/24

私は一日に何度空を見上げるのだろう? 数えたことはないが、部屋の窓から見える空も含めれば、二度や三度では済まないはずだ。少なくとも十回以上は視界に収めているはずだが、いまだにUFOが空を飛行しているところを見たことはなかった。
なにも編隊を組んで軍用機のように空をよこぎるUFOの群れを期待しているわけではなく、ただぽつんとひとつだけ迷子のように青空の一角に浮かぶUFOを目撃できれば、それでいい。べつに証拠写真や動画などを撮影して、人気者になりたいなどという下心があるわけでもないのだ。
ただ、写真の出来がよければTシャツにプリントしてさりげなく着こなしてみたい、という気持ちは少しある。
それはべつにUFOの写真撮影に成功したことを世間にアピールしたいからではなく、単純にTシャツの柄として興味があるということだ。
だから手ぶれしたりピンボケになったり、出来の悪い写真になったときはもちろん断念するつもりだ。
実際のUFOは思わぬタイミングで出現するだろうから、プロのカメラマンでもない私にはろくな写真が撮れないことが予想されるのだが……。
それでもカメラのついた携帯電話がポケットにしのばせてあるだけで、どこか心強さを感じられるのは確かである。
今からプロの撮影技術を必死に習得したとしても、都合よく念願の被写体が頭上に飛来してくるとは限らない。
それどころか、高い撮影技術を持つ人間の前に出現すれば撮影されるリスクを負うことになるのだから、UFO側でそれを避けている可能性もある。
未知の存在たちは、それくらいのことは易々とやってのけるだろう。おそらくテレパシーなどを活用して。

2019/08/23

ごく身近にあると感じられるものでも、たいていは視界に入ってなどおらず、いきなり消えたり再出現したりしたところで、反応する人間はごくわずかなものだ。
たとえば私の住むアパートの屋根の色が突然赤から紫に変わったとして、いったい何人の人が目を丸くして立ち止まり、首をひねってみせる程度の反応を示してくれるだろう。
なんとなく違和感をおぼえることはあっても、それを意識して原因探しに精を出すような人間は皆無かもしれない。これが間違い探しのクイズであり、正解すれば賞金が出るというなら話は別だが、私としても賞金を出すような経済的な余裕はないのだ。したがってせっかく苦労して塗り替えた屋根が人々の無関心にさらされることになるはずで、それが予想される以上、わざわざ金と手間をかけてまでペンキ塗りを始めようと思えないのは無理のないことだ。
こうしてアパートの建物は日に日にみすぼらしさを増すばかりで、何か新しい表情をアピールするような工事が施されることもあり得ない。
いわば見捨てられたアパートであり、朽ち果てていくその過程を見守るためにわざわざ家賃を払って住み込んでいるようなものだ。自分でもなんて物好きなのだろうと苦笑いを浮かべてしまう。
だがここに暮らしていることで、何もいいことがないと云えば嘘になる。たとえば庭の雑草を生えるままに放置しておくと、その中にいかにもおいしそうな葉っぱが混じっていることがあるので思わず「今夜のおかずにぴったりだぞ!」と叫んでそれを摘み取り、茹でてお浸しにしたり、そのまま生でサラダとして食卓にのぼらせることもできるのだ。
だが、それらの葉っぱはいずれもひどい味で食えたものではなかった。
美味しく食べられる植物とそうでないものは、いったいどこで区別すればいいのだろうか?

2019/08/22

ある家の屋根の上にカラスが一羽とまっていた。
「あれはカラスだな、全身が黒いから」
私は思わずそうつぶやいていた。
「今にきっとカーと鳴くぞ、何しろカラスだからな」
だがいつまでじっと見つめていても、カラスはいっこうに鳴く様子を見せなかった。
だんだん苛立ってきた私は、地面の小石を拾い上げるとカラスに向かって投げつけた。
見事に石がカラスに命中し、カラスはその瞬間「カー」と鳴いた。
私は満足して何度も心の中でその鳴き声を再生しながら帰途についた。
だが心の中で再生された音量が大きすぎたせいか、そのカラスの声は私以外にも聞こえていたようだ。
私の心の中でカラスが「カー」と鳴くたびに、道行く人が驚いたようにこちらを振り返るのである。
だがすぐに何事もなかったかのように目をそらすので、大して気にはならなかった。
カラスがあんなに黒いのは、心に真夜中のような闇を抱えているせいなのだろうか。
時にはそんな質問を近くにいる人に投げかけてみるが、誰からも答えは返ってこなかった。
あんなにありふれた生き物のようでも、みんなカラスのことを何も知らないに等しい。

2019/08/21

今日は珍しく電車に乗って名も知らぬ田舎町まで足をのばしてみた。
さすがに無名の町だけあって、駅の改札を出ると目の前には畑とも資材置き場ともつかない曖昧な土地が広がっており、それ以外にとくに視界に入ってくるものがなかった。
どうやらこの場所が無名である原因はこの辺りにあるのかもしれない、と私はピンと来た。
つまり駅前という外部の人々の第一印象をもっとも左右する眺めがこの有り様だから、この土地はいつまでも知名度を上げられないのだろう。いわば自己紹介が下手なために人々の社交の輪に入れない人間のように損をしているのだ。
そう気づいた私がため息をつきながら遠くに視線を向けると、荒廃した土地のむこうに派手なパチンコ屋の看板がその存在を主張していた。
「いっそのこと、この町は〈パチンコの町〉であるというアピールを前面に打ち出してみてはどうか? 改札を出ると正面に巨大なパチンコ玉を模したオブジェがあり、パチンコ玉のように銀色に塗られた送迎バスが次々と発着して人々をパチンコ屋へと運んでいく。つまりこれからパチンコを思う存分楽しみたい人々が、事前に自らパチンコ玉の立場を疑似体験する、町自体が一種のパチンコ台と化すという粋な趣向は、まさに〈パチンコの町〉にこそふさわしい画期的なものだと云えるだろう」
私は心からほとばしるように溢れる町おこしのアイデアを、惜しげもなく口に出していた。
だが駅前の空間には人影がまるでないばかりか、駅もどうやら無人駅のようで、生物の気配といえばミンミンと鳴く蝉と地面に列をなす蟻くらいのものだ。
蝉や蟻に町おこしを任せるのは、いくらなんでも無謀というものだろう。
かれらにとって快適な町は人間とはまったく違う。同じ生き物どうしなら理解し合えるというものではなく、我々はどこまでも平行線をたどるしかない。

2019/08/20

近所の公園の隅のほうをよく見たら、おじいさんが別のおじいさんを殴っていた。
「暴力はいけませんよ!」
そう叫びながらあわてて駆けつけると、おじいさんはキョトンとした顔で私を見返した。
おじいさんの前には一本の貧相な柿の木が生えていた。
おじいさんは別のおじいさんを殴っていたのではなく、おじいさんにそっくりな柿の木を殴っていたのである。
聞けば娘夫婦や孫たちとの同居生活は何かと息が詰まるので、時々こうして木の幹を人間に見立てて殴ることで、ストレスを解消しているのだそうだ。
私はせっかくのストレス解消タイムにとんだ邪魔に入ってしまったことを詫びた。
「こうしてべつに痛みを感じるわけでもない樹木へ暴力衝動を向けることで、幼い孫たちのような非力な存在を殴るような最悪の事態が回避されているのだとすれば、こんなに素晴らしいことはないだろう」
私はそのように感慨に耽り、老人の繰り出すパンチに見入っていた。
「だが殴りつける対象に自分とそっくりな印象の柿の木を選んだ点には、この老人のひそかな自殺願望が無意識に反映されているのかもしれない」
そう思うと私は心配になり、不安げな表情で老人を見つめた。
「だが自殺衝動が『自分によく似た樹木をくりかえし何度も殴る』という行為に昇華され、結果的にこの老人が元気で長生きできる可能性もある。だとしたら本当に素晴らしい、祝福すべき結果だといえるだろう」
そう考え直した私はすっかり笑顔に変わり、その笑顔はひまわりの花のような明るさに満ちている。

2019/08/19

間違えてドアを開けてしまった会議室が会議中だったので、これも何かの縁だと思って私も会議に参加することにした。
「それは違うと思いますね」
いかにも切れ者といった鋭い目つきの女性が、何かをもたもたと発言していた愚鈍そうな男の言葉を遮ってそう言った。
「あなたはさっきから同じ場所で話が堂々巡りしていますよ。その問題についての適切な反論は、つい五分ほど前にも私の口からもたらされています。聞き逃したのでしたらもう一度言いましょうか? 必要ありませんか? では時間の無駄ですから先に進みましょう。このプロジェクトの核心にあるのは地球の温暖化と、そのことに対する人々の広範かつ根深い無関心です。我々は率直にその事実を認めたうえで、現状を甘く見積もりすぎていたことへの反省をすみやかに生かす次の手を、ただちに考えなければなりません」
「チキュウオンダンカって何のことだね?」
頭髪の薄い、初老の男性が小声でそう私に訊ねてきた。
「よく知りませんが、だんだん地球の気温が上がってポカポカしてきているらしいですよ」
私がそう答えると、
「ポカポカしてきてるなら、いいことじゃないか」
初老の男性はいかにも不服そうにそうつぶやいた。
「でも北極とかの氷が融けると、海面が上がって日本が沈没するらしいです」
「それは本当かね!? 日本が沈没したらローンの終わってない我が家も水浸しだぞ!!」
初老の男性は驚きのあまり叫びながら椅子から立ち上がってしまった。
すると机を囲むみんなの注目が男性に集まり、発言を中断させられた女性が憤怒に満ちた目で男性を睨みつけた。
その隙を突くように、私はこっそりとその名も知らぬプロジェクトにかかわる人々の会議室を後にした。
有意義な会議を台無しにした無能な男の共犯者に仕立て上げられては、たまったものではないと思ったからだ。

2019/08/18

海の見える場所にいると、つい時を忘れて水平線を見つめてしまう。
まるでそこから先は滝になって、海水が虚空に落下しているかのような眺めに夢中になり、写真を撮ったりスケッチをしたりしているうちにいつのまに日が暮れている。あたりは真っ暗になり、周囲に明かりのない海岸にいる場合などは自分がはたして海と陸、どちらに向かって歩いているのかさえ自信がなくなってしまう。そんなときのためにローソクとマッチを用意して、ほのかな燭光を頼りに歩けば夜の海で溺死することが避けられると私は信じていた。ポケットにはつねにローソクとマッチ。それが私が散歩に出るときの必携のアイテムなのだ。
もちろん、闇の中でどちらへ歩けばいいかわからなくなり、途方に暮れるのは海岸ばかりではない。どちらかというとむしろ、山奥の木々に囲まれた場所で体験しがちなことだろう。
海と違って、山では私の視界を覆うのは暗闇だけではない。大地そのもののつくりだす斜面や、そこに生えた植物が視界を覆うだけでなく、物理的に行き止まりとして前進を阻みさえする。そうした特徴は海よりもずっと恐ろしいところなので、十分な注意を払うべきだ。素人が軽装で気安く山へ足を踏み入れるべきではないし、プロフェッショナルとしての自信にあふれる少数の者以外は、日没までに確実に町へ帰ってきたほうが身の為だ。
その点、日本の海岸の多くは近所に町や、少なくとも自動車の通りかかる道路くらいはあることが期待できる。間違えて海水に向かって歩き続け、波に呑まれて命を落とすことさえなければ、たとえカジュアルな服装でも無事に危機を脱することは可能だろう。
だから海岸へ出かけるときの服装は、単に機能性ばかり優先せず、ちょっとした遊び心やおしゃれ心も忘れずにいたいものだ。そこが山遊びと海遊びの大きな違いなのである。

2019/08/17

頭が痛いので散歩に出ることはあきらめて、ただ天井を眺めることに数時間を費やしたところ、いつのまにか外は暗くなっていた。だが、あいかわらず頭は痛い。
「こうして一生にできる散歩の数のうちのひとつを、永久に失ってしまった。こんなことなら頭痛を我慢してむりやり外出し、時々大声で叫んだりすることで頭痛から気をそらせながら町を気ままに歩いてしまえばよかった」
私は性格的に、こうした後悔の念にとらわれることが頻繁にある。これは持って生まれた気質的なものが原因であり、取り除くことは不可能なのだろう。
したがって、私は今後も自分の性格のマイナス面とつきあっていく必要があり、そのための様々な心構えを整えておくことが不可欠なのだと、ことあるごとに自分に云い聞かせている。
「自分が聖人君子のような人格に生まれなかったことを悔やんでも、どうすることもできない。与えられたものを最大限に生かすために前向きな気持ちになって、たとえ向かい風の中でも笑顔で歩いていくことが大事なのだと最近気がついて、そのことをツイッターで発信したことも昨日のことのように思い出される。だが、ツイートを目にしたはずの人々からはなんら賛同の意見を得ることはできなかった。私のあらたな船出のための決意表明が、他人の無関心に晒されるのはつらいことだ。それは単なる無関心というより、目障りなものとして目をそらされたという可能性もある。人生で必要なことに気づいて実行に移していくような行動力は、誰にでもあるものとは云いがたい。日々の生活が重荷となって、たとえ船出をしてもすぐに沈没するイメージが頭から離れず、ただ職場などへの愚痴を綴ることで気を紛らわせる人が多いのも事実だろう。そうしたツイートの中にもユーモアがあって思わずクスッと笑ってしまうようなものがあり、私はそうした傑作ツイートを紙に印刷して持ち歩き、時々眺めて満員電車の中でも笑顔になってしまうことがある。周囲の人々は、混雑した車内で紙を広げる私を氷のように冷たい目で見るのだが」

2019/08/16

何かを考えるためには、それを考えるための場所を頭の中にあけてやり、そのうえで考えるための材料をそこに次々と転がしてやる必要があると思われる。
頭の中にそのようにスペースを設ける余裕がなかったり、あったとしてもそこに投入できるような考えの材料が見当たらない場合には、人はとくに何も考えたりはしないものだ。
よくインテリ層に属する人々が、世の中の人々が何も考えていないために社会がどんどんひどい状態に陥っていくことを嘆いているが、それは考えるためのスペースと材料を豊富に手に入れている(独占していると言ってもいい)自分たちを棚に上げ、そのしわ寄せを受けていると言ってもいい人々に社会をよくすることの責任まで押しつけようとするとんでもないふるまいである。
インテリはまるでプール付きの豪邸のような空間で好きなだけ物思いにふけることができるのだから、その時間をつかってこの世の悪の根源というべき権力者を地球の外に追放する計画を立て、念入りに準備を進める義務があるのである。
そのための最新のテクノロジーを用いた兵器なども開発すれば、たとえ体力的に脆弱なインテリであっても軍隊などを擁する権力者と十分互角に戦うことができる。
もちろん勝負は時の運が左右するもので、必ずしも勝利が約束されているわけではない。だが長年に渡って描いてきたシナリオを自ら登場人物となって現実化させようという気概を見せてこそ、世の中の人々は動かされ、インテリたちの屍を越えて権力の中枢へと暴徒としてなだれ込む日がやってくるだろう。
そんな日が来ることを夢見てプールサイドでうたた寝するインテリたちの優秀な頭脳を納めた額の上を、流れ落ちる汗が今日もまたきらりと光ったのだった。

2019/08/15

少し足をのばして遠くのスーパーへ行くと、豚肉が安く売られていた。べつにそんなことを期待してわざわざ自宅から離れた店を覗いてみたわけではない。私は自分にそう云い聞かせた。さもないと、これから何度も同じ幸運を期待して遠くまで足をのばし、おそらくその期待を裏切られて殺伐とした気分になることが予想されるからである。
すべてのことはただ、何も期待せず、なるようにまかせておくのがいい。風に飛ばされた千円札が道路を渡り、野原をひらひらと舞いながらさらに飛ばされて、いつのまにか私のポケットに収まっている。そんなことができるだけ多く人生にあればと願うのが、人情というものではあるだろう。
だが、いったん期待してしまえばその千円札は、いわば私のポケットに最初から糸でつながれていて、偶然をよそおって風の中を移動して、当然のようにポケットに到着したのと同じことになる。
そして千円札が私のものにならなかった場合、なんらかのアクシデントで糸が切れ、誰か他人の手に渡ったのだと想像して暗い気持ちになってしまうはずだ。
だから私は、私に訪れた幸運のことを速やかに忘れ、口からよだれを垂らさんばかりの死人のような顔で外をうろうろと歩き回らなければいけないのだ。
そんな人間は見るからに不気味なので、子供たちから石を投げられたり、大人に警察に通報されるといった災難に見舞われるかもしれない。
だがそうした不愉快な出来事もその気になればほんの数秒で忘れてしまえる。
そもそも目の前の警察官が何を云っているのか理解できないくらい頭が空っぽだし、せっかく安く買った豚肉は交番で長々と説教を浴びている間に腐り出し、悪臭を放ち始める。
夏場の生ものの足の速さは本当に驚くべきものだ。
ドーピングしたベン・ジョンソンでも、こいつにだけは勝てないのではないか?

2019/08/14

市民プールは市民のためにあるプールだ。今日も大勢の市民がつめたい水しぶきを上げて、太陽の真下でそれぞれの半裸で過ごす時間を楽しんでいる。
「やはり夏は大変に気温が上がり、できるだけ衣類を減らしたうえで大量の水を身にまとうことでもしなければ、到底やりすごせないのかもしれないな……」
金網越しにプールの様子を眺めていた人物が、そうぽつりと漏らすのを耳にした。視線を向けると、それはとくに知り合いでもない平凡な身なりの老婆で、私は返事をする必要を感じなかったのでそのまま無視を続けた。
すると老婆は、私が黙って話に耳を傾けているとでも思ったのだろうか? それからしだいに饒舌になりながら言葉を紡いでいったのだ。
「数え切れないほどの夏を、私は経験したと云えるだろう。そのどれひとつをとっても、暑さという共通点を逃れるものはない。有体に云って、夏などどれも似たり寄ったりなのだ。にもかかわらず、今年の夏は一度しか来ないという矛盾が、我々の行動に奇妙な影を落としている気がする。適当に涼しい恰好をして秋が来るのを待つ、というのでは耐えられないような渇望が、あらかじめ我々の精神に巣食っているのだ。この夏ならではの事件を期待し、必死にそこらじゅうを駆け巡った挙句、熱中症で倒れて寝込んでしまう。そのときうなされる夢の中でだけ、他では経験できない唯一の夏の場面が出現するような気がする。だとすれば、夏特有の体調不良もあながちマイナス面しかないとも限らない。ゴミ捨て場で宝を拾うような経験が、もっとも宝石を輝かせるのもまた事実なのだ」
まるで熱に浮かされたように語り続ける老婆は、日傘はおろか帽子もかぶってはいなかった。そのため熱中症によるうわ言のようなものをつぶやいている可能性がある、と思われても仕方なかっただろう。実際、その様子を遠くから見ていた誰かが親切にも119番通報したらしい。
やがて救急車が到着すると、溶けきった蝋燭のように生気をなくした老婆は担架で運ばれていった。その表情はきわめて満足げなものであった。
確かにこの夏だけの稀有な思い出を、彼女は刻み付けることができたのだろう。

2019/08/13

時には何の目的もなく、足の向くままに任せて道をさまよってみるのも悪くないだろう。
そう思ってはいても、目をつぶって歩いているのでもない限り、やはり無意識のうちに自分の行きたくない場所を避け、好ましく思っている場所へと接近してしまうものだ。
それではつまらないとばかりに、両目と両耳をふさいでいきなり町に飛び出したら、たちまち車に轢かれて大怪我を負ってしまう。
「いくら目的とは無縁な彷徨を望んでいても、そのせいでいちいち怪我をして入院していたのでは医療費も馬鹿にならない……」
気がつくと私は最近できたばかりのディスカウントスーパーの前に立っていた。
もちろん、何かを買いにきたというわけではない。入口の自動ドアをくぐり、まるで美術館を順路通りに見ていくような目つきで、さまざまな商品を眺めるだけの時間を過ごした。そもそもポケットに財布など収められていないのだ。
それでも高級スーパーではなくこの店にたどり着いたのは、こうした庶民的な雰囲気の店内を好ましく思う気持ちが、私の体に沁みついていることを意味している。
「どうせ見るだけなら高級な食材や高級なワインなどを思う存分凝視したい、といったタイプの人も世の中にはいるだろう。自分がどのタイプに分類されるかは、足の向くまま街をさまよってみない限り、自分では知ることのできないことなのだ。そう思えば、今日のような散歩にも未知の自分と出会うという隠された目的があるのだと断言できる」
いつの日か、ふとした弾みで「すべての商品をそのへんの石ころと交換できる、究極のディスカウントスーパー」にたどり着く可能性もゼロとは言えないだろう。
心の奥底でそれを望んでいる限り、私の歩みはいつもその夢の実現する場所へと、少しずつ近づき続けているのである。

2019/08/12

朝早く目を覚ますと、まだ寝ていられた数時間を無駄にしてしまったような気分になり、枕の上で深くため息をついてしまう。
もちろん、そこからふたたび眠りの世界にもどってもかまわないのだが、いったん朝の光に目を触れてから帰っていく眠りの中は、どこかよそよそしくてくつろげない雰囲気に変わってしまっているものだ。
さっきまで見ていた夢の続きが運よく見られたとしても、どこか気が散って没頭しきれない映画の続きを見るようで、やはり夢の中でさえため息をついてしまうのだ。
だからいっそのこと、ベッドを飛び出してまだ明けきっていない朝の町を颯爽と歩いてみるのも、じゅうぶん考慮すべき選択肢のひとつだろう。
ふだんは見かけることのない、近所の家の室内で飼われている犬たちが、朝の散歩に連れ出されて興奮気味に歩いていく姿とすれ違う。もちろん飼い主が一緒にいるので、そんな犬たちを「動物なら動物らしく、もっと自由に野山を駆け巡ってみろ!」と首輪を外して解放してやることはできない。喉元まで出かかった台詞を飲み込んで、無言で見送ることしかできないのだ。
いつかすべてのペットたちを、人間たちの都合で囚われた不幸な境遇から解放してやりたい。そんな私の願いも虚しく、何匹もの哀れな犬たちとすれ違う羽目になり、私の心は朝だというのに暗く沈んでいった。
せっかくのさわやかな時間帯が台無しにされた気分で、私は不愉快さを隠しきれなくなったためか、犬を連れた飼い主たちはみな私の歩くのとは反対側の歩道ばかりを通るようになった。
おかげで哀れな囚われの動物たちを至近距離で見ることがなくなり、私の心は徐々に平穏さを取り戻し、顔には笑顔まで浮かぶようになった。
空はよく晴れ、すでに蝉の声が響き始めている。今日もきっと暑くなるだろう。

2019/08/11

バスに乗っていると、つい「このバスはどこへ行くのだろう?」ということが気になってしまう。
電車でも同じことだ。「この電車はどこへ行くのだろう?」などと考えることなく、ただその乗り物の乗り心地や窓の外を流れる景色に身を委ねるのが、余裕のある生き方だということは頭ではわかっている。
それでもやはり、その乗り物が自分の行きたい場所(最寄りの駅だったり、にぎやかな繁華街だったり)に着けばいいなと心の中で願わずにいられないし、もしまったく期待外れの場所(荒れ果てた墓地や、周囲にコンビニもない沼のほとり)などに到着した挙句「終点なので降りて下さい」などと放り出されたら、不安と憤りでろくに口もきけなくなってしまう気がする。
今日はバスに乗りながら、そんなことをずっと考え続けていた。余裕を持った自由な精神で生きたいという気持ちと、せかせかと時間に追われて生きなければ、この砂漠のような無慈悲な世界ではたちまち野垂れ死にしてしまうという焦る気持ちの間の葛藤が、私の頭をいっぱいにしていた。
「こんなことでは車窓の景色もまったく楽しめないし、停留所のアナウンスも耳を素通りしてしまうから、たとえ目的の土地を通りかかったとしても気づけぬままだ。結局のところ、どっちつかずというのが一番問題なのだ。態度をはっきりさせることで自ずと結果の白黒も見えてきて、今後に反省を生かせるというわけだ」
次の瞬間、私は何かに突き動かされたように降車ボタンを押していた。
この瞬時の決断によって停車したバス停で降りてみたところ、周囲はなんとなく楽しげな明るい雰囲気に包まれており、この判断は正解だったのだと自画自賛したくなってくる。
思わず小躍りしながら周囲を散策してみたが、しだいに第一印象とは裏腹にそこはずいぶん物寂しく、殺風景な土地であり、かすかに異臭も漂っていることが明らかになってきた。
私はがっかりして肩を落としたものの、けっして後悔はしていない。
今回の反省を今後に生かすことで、次からはもっとましな判断ができるようになること。それがおそらく人生の醍醐味なのだ。

2019/08/10

庭先で夕涼みをしていると、どこかで祭でもあったのか、浴衣姿の子供たちが前を駆け抜けていった。
だが今日どこか近所の神社などで祭が行われるという噂を、私は耳にしていない気がする。
べつに祭のない日に自主的に浴衣を着てもかまわないのだが、子供たちが通り過ぎていったのは道路ではなく、我が家の庭なのである。
祭りの日に浴衣を着るのはただの習慣だが、他人の家の庭ではなく道路を歩くというのは、ずいぶん昔から社会で定められている周知のルールだ。
いまだそうしたルールの多くが身についてない子供たちにその都度注意を与え、正しいルートへ導いてあげるのは私たち大人の役目なのではないか?
突然そのことに気づいた私はあわてて立ち上がり、ルール違反者である子供たちの後を追って駆けだした。
だがたちまち目の前のブロック塀に顔面から激突すると、その衝撃で倒れ地面に大の字に横たわってしまった。
「こうして見る青空がうっすらと夕焼けに染まっている様子は、いかにも夏らしくて風情のあるものだ。今すぐ祖父の形見のカメラを持ってきて撮影しておきたいが、写真では今ここで五感が味わっているすべてを記録することは決してできない。非常にやせ細った、わずかな手がかりを残すのが精いっぱいなのだ。そう思うと写真のことなどどうでもよくなり、ひたすらこの景色に身を浸していることが現在の私にとってベストの選択だということが明らかになってきた」
そうつぶやいて空を凝視したが、だんだん暗くなっていく以外に大して変化がないためか、しだいに私は眠くなってきたようだ。
気がつくと翌朝の薄明りの中に横たわっており、庭木に集まった鳥たちが口々に朝の挨拶を口にしていた。
おかげでゆうべ近所で祭があったのかどうかは未確認のままだ。
それを知るためには、何らかの手段でゆうべの時間へとタイムトリップする以外にないだろう。
だがタイムマシンが発明されたら他にもっと確認したいことが山のようにあるため、やはりゆうべの祭のことは永久に謎のまま終わるのである。

2019/08/09

我が家は東京のはずれのほうにあって、ここからは東京タワーを見ることはできない。
だが東京タワーが見えない場所が「東京」を名乗っているのは、何とも矛盾した話ではないだろうか?
もちろん、地上を離れてなんらかの手段で空中に浮かび、そのまま上空高くへ到達すればここからも東京タワーを見ることができるだろう。
だが我が家の上空はるかな高みに浮かび上がったとき、そこはまだ「我が家」と云っていいのか? というのもまた大いに疑問に思えるところなのだ。
せいぜい地上に建てられたビルの屋上などに出かけて行って、そこから他の建物や山、地平線などに邪魔されず東京タワーを眺められることが、その土地が東京であるための条件なのかもしれない。
その場合、我が家はさっそく失格して東京都民という資格をはく奪され、次からは都知事選挙への招待状も二度と届かないことだろう。
もっとも、私はこれまで都知事選挙への投票をしたことは一度もないが、それは有権者としての貴重な役割を放棄しているというわけではなく、投票所へ行こうとするとなぜか周囲が白い霧に包まれて何も見えなくなり、奇妙なうめき声や含み笑いのようなものが聞こえてきて、気がつくと東京タワーの展望台に立っているのだ。
もちろん、そこから見えるのは東京の街並みだ。東京の過去から未来へと続く景色を一望に収めているような興奮に包まれ、私は展望台の壁に「徳川家康」と書いて帰ってきた。
だが家康が都知事に復帰したという話は聞かないから、私の一票はつねに無駄に終わっているのだろう。

2019/08/08

連日の暑さにすっかりやる気を失っていた私は、何らかのスリルを味わうことで涼しさのようなものを感じたいと思い、町はずれの廃屋を訪れてみることにした。
そこは住人が一家心中を遂げた後ずっと放置されている家で、そのせいか窓ガラスも割れたまま修理されず、落ち葉やゴミなどが室内に入り込んでいるようだった。
「もしもこの家で一晩過ごしたとすれば、おそらく心中一家の最後の晩餐の様子を夢に見るにちがいない。心中するほど追い詰められた人たちとはいえ、これが現世の最後の食事と思えば、今後の食費のことは気にしないで済む。スーパーで高級な牛肉を買ってすきやきなどを腹いっぱい食べたのだろう」
私は割れた窓をじっと眺め、悲惨な最期を遂げた一家がその晩味わった牛肉の味と匂いを想像した。
思わずお腹がグーと鳴ったことに赤面しつつ、そういえばずいぶん長い間すきやきなど食べていないことを思い出したのだ。
私は玄関に近づいていくと、そっとドアノブに手をのばした。だが生憎ドアにはしっかり鍵がかかっており、廃屋に無断で上がり込むことはできなかった。
したがって今晩の夕食のかわりにすきやきの夢を見るという、私のささやかな願いは実現せずじまいだったのである。
「もっとも、死んでいった一家がベジタリアンでなかったという証拠は何もないのだ。腹を空かせたままゴミだらけの床で眠った挙句、サラダなどを食う夢でも見させられたのではたまったものではないな……」
そう思うと案外、家に上がれなくて正解だったのかもしれない。
私は負け惜しみのようにそう考えることにして、その場を立ち去ったのだった。

2019/08/07

私は生まれつき好奇心が強い性分なのか、地面を見るとつい穴を掘ってしまいたくなるタイプだ。
実際掘ったところで何も出てこないことが大半なのだが、だからといって「何も出なかったじゃないか!」などと八つ当たりのように叫んでシャベルを放り捨て、そのまま穴を放置して立ち去ってしまえばどうなるだろう? 通行人の誰かがうっかりその穴に落ちて、地上から突然姿を消すようなことになりかねない。
だから自分で掘った穴は、きちんと自分の手で埋め戻しておくことがこの場合大切なマナーなのだ。
「そんなマナーも守れないような人間には、穴を掘る資格などないのだと断言できる。埋蔵金などを掘り当てることを目的に、そこらじゅうの山奥で穴を掘っているような卑しい奴らはきっとマナー知らずの金の亡者たちに違いない。もっとも、そういう人間に実際会ったことはないので想像にしかすぎないのだが……」
大小さまざまの穴が、つねにこの国の地面のどこかに掘られては、ふたたび埋められている。
そんなことを思い浮かべるだけでなぜか顔が綻んでしまい、
「今までに一番大きな穴を掘った人にインタビューしてみたいものだ。それは日本海溝くらいの巨大なサイズの穴だろうか?」
私はそんな夢を思わず口に出していた。
もちろん、すでにその穴は埋め立てられて跡形もなく消えているはずだ。
誰よりも大きな穴を掘ることができる人間は、誰よりもマナーをきちんと守る真面目な人柄に違いない。
マナーもろくに守れない二流の穴掘り人間どもは、一人残らず自分の掘った穴に落ちてしまえ!

2019/08/06

夏の間そこかしこで騒ぎ立てる蝉たちの声を聞いていると、その騒々しさにどうしようもないほどの苛立ちを覚えてしまう。
だがよく考えてみれば、蝉の声はいかにも日本の夏を思わせる風流なもので、こうした季節の風物詩を大事にしたいものだとつくづく思えてしまうのだ。
その一方で、夏じゅうこんなに大声で騒ぎ立てる必要が果たしてあるのか? と思えるほどの騒音ぶりに腹が立ち、そこらじゅうに殺虫剤を散布して回りたくなる気持ちを抑えることができない。
もちろん、そんなことを実行するのは風流の分からない欠陥人間だけであり、夏気分を満喫するべく蝉の声に耳を澄ませながら西瓜などを食べるのは、この上ない幸福な時間だ。
だがちょっと考えてみればこんなに大音量で騒ぎ立てる必要があるとは思えず、嫌がらせなのか? と疑いたくなるほどの騒音に対して激しい怒りが湧いてくる。
とはいえ、夏だけにしか味わえないその合唱を浴びながらかき氷などを食べることは、子供の頃から親しんできたこの国の原風景のようなものに思えてならなかった。
だからといってどこへ行ってもひっきりなしに鳴き続ける狂ったような昆虫たちに対し、強力な殺虫剤を浴びせて全滅させてやりたいという感情は紛れもなく存在するのだ。
そんなことを実行するのは暑さで頭の狂った社会の敵というべき危険人物だけであり、焼きとうもろこしなどを齧りながら蝉の声を楽しむことだけが、この季節ならではの素晴らしい過ごし方なのである。

2019/08/05

見るからに知的な雰囲気を漂わせた人に出会うと、思わず手をのばして握手を求めたくなる。
近頃では物事を冷静に知的なまなざしで判断するという姿勢に欠ける人たちが多く、私は少々疲弊気味だった。知的な怠慢が大手を振って歩く世界は、一見すると肩の凝らない風通しの良さが感じられるが、ちょっと人けのない場所に行くとたちまち目つきの悪い人々に囲まれて金品を奪われてしまう。やはり人間の本性は卑しいものなので、大学へ通うなどして高度な教育を身につけておかないと、たちまち他人の心を傷つけるような配慮に欠けた行動をとってしまうのである。
だから知的な雰囲気のある人を見ると、
「他にも知的な人たちがたくさん集まっている、そんなサロンのような場所が近所にあるのだろうか?」
そんなことを考えてつい後をつけていってしまうのである。
だが足音を忍ばせてこっそり尾行した挙句に、その人がコンビニで漫画やエロ本などを立ち読みし始めたときには心底がっかりしてしまう。
「いかにも知的な外見に思えたのも見掛け倒しで、実際には漫画やエロ本の読み過ぎで近眼になっていただけなのか……」
そううっかり声に出してつぶやいてしまっても、その人は我を忘れて立ち読みに没頭しているので、トラブルになるような危険もないのだ。
こちらから声をかけて握手などしなかったのは幸いだったと云えよう。うっかり話が弾んで親しみを感じた挙句「友達を紹介するよ」などと云われ、知的な人々のサロンだと思って訪ねた先が漫画やエロ本愛好家たちの集いだった場合、どうやってその場を立ち去ればいいのか見当もつかない。
差別はいけないことだと頭ではわかっていても、一刻も早くその場を去りたいという気持ちが顔に出ることを、抑えられる自信はなかった。
もっとも、その場にいるような人々は漫画やエロ本を読むことに夢中になっており、そんなインテリの良心の葛藤になど気づくはずもないのだが。

2019/08/04

海の底で海藻がゆらゆらと揺らめいているさまは、神秘的でもあり、もちろん涼しげにも感じられるものだ。
あまり深い海では太陽の光が届かないから、ある程度の浅い海底が望ましいように思える。とはいえ、私には海底に潜る趣味はないから、そのような光景(ゆらめく海藻)はテレビ番組などで見たか、頭の中で想像したイメージなのだろう。
暑さが厳しい日がまるで終わりのない悪夢のように続くとき、そんな光景こそ人々が無意識に求めているものだと云えるかもしれない。
地上波やBS、ケーブルテレビなども含めたあらゆる放送局をジャックして、さらにインターネット上のすべてのサイトもハッキングして「海の底で海藻がゆらゆらと揺らめいている光景」の映像を流し続ければ、我々の体感気温が一気に十度くらい下がるのでは? といったことが予想される。
おそらく技術的には十分可能なはずだが、そのアイデアを実行に移した場合思わぬ副作用が生じることが懸念されるのだ。
いきなり海底の光景が目の前に映し出された場合、かつて嵐の日などに船の甲板から海へ投げ出され、溺れた経験を持つ人たちが一斉にフラッシュバックを起こす可能性がある。
このまま暗黒の海に沈んで二度と浮かび上がれないのでは? という絶望感や、呼吸ができず大量の水が鼻や口から入ってくることへのパニック、凶暴な鮫などに襲われて手足が食いちぎられることへの恐怖。
そうした負の感情が一斉によみがえり、苦しめられる人たちがいることを想像したら、たとえどんなにいいアイデアに思えたとしても「海の底で海藻がゆらゆらと揺らめいている光景」でこの世のすべてのディスプレイを占拠することなど、けっして許されないことはわかるはずだ。
世の中の99パーセントの人間が快哉を叫ぶような行為は、必ず残り1パーセントの人たちに地獄のような犠牲を強いるということを忘れてはならない。
もちろん個人的に自宅のパソコンなどでそういう映像を見ることは、まったくの自由である。時には誰かにPTSDを発症させるような注意すべき映像もまた、各自が節度をもって楽しむ分には、一服の清涼剤ともなりうるのである。

2019/08/03

とんでもない馬鹿が暴れていたので、みんなは遠巻きに馬鹿を眺めていた。
やはりこんなに非常識なまでの暑さが続いていることが馬鹿を奮い立たせ、
「おれもこの強烈な暑さに負けないところを見せてやる!」
といったライバル意識を刺激したのかもしれない。
だとすれば、単なる自然現象とはいえ、猛暑もずいぶん罪なことをしてくれたものだ……。
すでに何人かが馬鹿に棒のようなもので殴られ、頭から血を流しながら病院に向かって歩いていくのが見えた。
私はこのところ健康保険の支払いが滞りがちでもあるし、病院へ行くのは気が進まない。もし殴られて流血したら、自宅で包帯を巻くなどして安静にし、治るのを待つしかないだろう。
そう思って馬鹿の目に入らないよう、他の通行人の陰に隠れるようにして歩いていった。
だがその通行人がいきなり駆け出したので、その場に取り残された私はばっちり馬鹿と目が合ってしまった。
まるで檻から解き放たれた動物のように突進してくる馬鹿を見て、私は思わず息を飲んだ。
「Yさんじゃないですか」
「ああ、どうもおひさしぶりです」
「どうしたんですか棒なんて振り回して」
「いやあ、毎日暑いじゃないですか。だからぼくも負けていられないなと思って」
「やっぱりそうですよね」
「じゃあ、ぼくはまだ棒の続きがありますんで」
「がんばってください」
「ありがとう」
以前バイトで一緒になったことのあるY氏とそんな会話を交わして、私は会釈するとその場を去った。
振り返ると、Y氏はふたたび棒を振り回して通行人を血祭りに上げている。
私はあんな馬鹿と旧知の仲だと思うと、なぜかひどく屈辱的な気分を味わった。

2019/08/02

夏本番といった感じの日々が続くため、ちょっと足をのばして海までドライブをすることにした。
だが運転免許は持っていないので、当然乗っていくのは自転車だ。風を切って走るのは初めのうちは気分が良かったが、たちまち汗だくになり喉の渇きが止まらなくなった。
水筒の中身はとっくに空になっている。こんなことでは海にたどり着く前にギブアップする羽目になり、せっかくのドライブ計画が台無しだ。今日のバカンスを成功に導くにはどうしたらいいのか、直射日光を頭に浴び続けたためにいいアイデアが思い浮かばなくなっていた私は、自暴自棄になったのかふらふらと車道に飛び出していった。
どうやらいつのまにか私は、どこかの高速道路に迷い込んでいたらしい。ものすごいスピードで背後から飛ばしてきたトラックが、ブレーキを踏む間もなく私を乗せた自転車に激突。自転車ごと宙高く舞い上がった私は、見事な放物線を描いて地上に落下していった。
だが落ちた場所がたまたま海岸の波打ち際だったため、まわりの海水浴客にはひどく驚かれたものの、奇跡的に無傷で済んだのである。
目的地へは一瞬でたどり着けたし、波に洗われた自転車の籠にはたくさんの貝殻や海藻、魚などが入り込み、お土産もたっぷり手に入った。結果的にいいことづくめで、ぜひ誰もが自転車で高速道路に迷い込むことをお勧めしたい気持ちになったものだ。
だが世の中では悲惨な交通事故の犠牲者が後を絶たず、私のような例はむしろ少数派だろう。そう思うとツイッターなどで気軽にみんなにお勧めする気にもなれず、私は全国の交通事故犠牲者の冥福を祈って、なんとなく道路の方角へ向かって手を合わせた。

2019/08/01

今日もまた大変な猛暑が続いていた。
こんな暑い日にうっかり外に出ると、ほんの数分間立っていただけで意識が朦朧としてくる。
かと思えば突然くっきりと意識のピントが合ってしまい、何事だろうと周囲を見ると、さっきまでとはまるで違う景色が広がっているのだ。
アパートの前の路地にぼんやり立っていたはずなのに、はっと気がつくとまわりには子供の頃によく遊びに行った近所の公園の風景が広がっていた。
その公園はすでに潰されて住宅が建っていることは、正月に帰郷したときに確認していた。だから私は単に空間だけでなく時間も飛び越えて、すでに存在しない公園に立っていたことになるのだ。
物珍しさにキョロキョロと首を巡らせていると、すべり台の上にいた子供が興味深そうに突然話しかけてきた。
「おじさん、手に持っているそれは何なの?」
思わず自分の手元を見下ろすと、私の右手にはまだ死んだばかりの温かいカラスの死骸がぶら下がっていた。
「これはカラスの死骸だよ」
私はそう云って死骸を掲げて子供に見せた。
「おじさんが殺したの?」
「まさか。カラスの死骸屋から買ったんだよ」
「いくらで買ったの?」
「三百円」
私は「どうせここは時空を超えた公園なのだから、発言の責任を問われることもあるまい」と思って口から出任せを並べた。
子供はいたく感心したようで、「さんびゃくえんならぼくもほしいな」とつぶやいた。
「それじゃあ、ただであげるよ」
そう云ってカラスの死骸を子供に押しつけると、私は公園の出口へと向かった。
だが外に出ようとするときにまた視界がぼやけてきて、気づいたら元通りアパート前の路地に立っていたのである。
周囲を見回すと、顔見知りの老婆が日なたにぼーっと立ち尽くしたまま笑顔を見せていた。
その片手には、カラスの死骸らしきものが洒落たハンドバッグのようにぶら下がっていたのだ。
それを見た私はすばやくアパートの玄関に飛び込むと、冷蔵庫にあった麦茶をがぶ飲みした。
まったくこんな糞暑い日は、少し外にいただけでおかしなことになる。