2019/03/31

以前、とても古い建物があったのでなんとなく中に入ってみたところ、そこはれっきとした営業中のレストランだったので驚いたことがある。
まったく空腹ではなかったので、そのことを正直に言うと店員は接客的な態度を捨てて、友達にでも話しかけるような気安い口調で私に愚痴を言い始めた。
「こんな汚い廃屋みたいな建物だから、ぜんぜん客が来ないんですよね。客が来ないから店を修理する費用もつくれないという悪循環ですよ。おかげで給料も半年ほど支払われてないんですけど、転職する気力もないから貯金を崩して細々と暮らしてるんです。もうこの国の未来にはいっさい希望が持てないとわかってるから、私も貯金を使い果たしたらなりふりかまわず借金をして、借りられる限界に達したらオレオレ詐欺でもコンビニ強盗でもして、捕まりそうだと思ったらそのへんに走ってる電車の前に飛び込んで全てを終わらせるつもりですよ」
そんな厭世的な発言内容と裏腹に、彼はどこかうれしそうなうきうきとした表情で話し続けていた。
あまりにも客の来ない寂れた店で働くことで孤独を深め、反社会的な考え方をするに至ったのだとすれば、こうしてちょっとした偶然で私が入口から飛び込んできたことも彼にとっては何らかの幸運だったのかもしれない。
そのせいか、「これは私からの奢りです」と言って彼はテーブルに山盛りの野菜の入った器を運んできてくれた。
胡麻などがトッピングされたおいしそうなフレッシュサラダだ。そう思って目を近づけてみれば、胡麻に見えたのはひと足先に野菜を食べ始めている小さな生き物たちの姿だということがわかった。
だが店員にそのことを指摘すると無視された。彼は私が所持していた漫画の本を無断で読むことに夢中になっており、クレームの声などまるで聞こえなかったのである。

2019/03/30

夜がくるたびに外の景色は闇に包まれ、ほとんど何も見えなくなってしまう。そんな単純な変化のくりかえしでさえ、何らかの意図で演出されたわくわくするショーの一部に思えて、無意識のうちに窓から身を乗り出している。
近頃そのような心理状態になったことはないだろうか? それは季節の変わり目が見せる幻のような期待感が、一種の「頭の中の劇場」の観客席にあなたを座らせた結果なのかもしれない。
もちろん、単に違法な薬物などの影響で異常な興奮感覚に陥っているなら、話は別だ。すぐにでも薬物と手を切って、健康な生活を取り戻すことの方が大事なのだ。
もし薬物などを摂取していないと断言できる場合、高揚した気分に任せて、たとえ夜間であっても少しばかり外出を試みる価値はあると思える。
人々が寝静まった家が並ぶ中を、一本の木の幹のように夜道が続いている。そのまま真っすぐ木のてっぺんを目指して進むのも、横に曲がって左右の枝に寄り道するのもいいだろう。
ただし一本の木の外へ飛び出してしまうのは危険である。深夜はバスや電車などが動いていないし、タクシーを利用して思わぬ出費になるのも痛いところだ。その気になれば元来た道をたどって、すぐに家に引き返せる範囲にとどめるのが、夜の外出の秘訣である。
もちろん、あえてスリルを味わいたいという人を止める権利は私にはない。あくまで自己責任で、街灯のひとつもないあぜ道などに歩を進め、手さぐりで「この世の深い闇の中心」への接近を自らに許すこともまた、この人生の醍醐味には違いないのだから。

2019/03/29

巨大な穴のようなものが私の住む町のどこかにあり、町の人が少しずつその穴に吸い込まれていくのだという気が最近ではしている。
これは私の妄想だろうか? 川沿いの桜並木には花が開き始め、 その下を歩く人たちがスマホのレンズを向ける姿などが見受けられる。きっとバイトへ行く途中に桜が目に入り、つい足を止めてそんな行動に移ったのだろう。微笑ましい光景だが、桜の画像を保存したスマホごとその人がこの町のどこかにある、巨大な穴のようなものに吸い込まれて永久に戻ってくることがないのだと考えると、寂しい気持ちになって胸が苦しく感じられるのだ。
もちろん、その人は今後もとくに変化のない平凡な人生を続けるかもしれない。だがそんな保証は誰にもできないのも事実だ。巨大な穴のようなもののある町に住んでしまったことが、すべてをうっすらと暗い気持ちで包み込む不安材料になっているような気がする。
ならば今すぐ別の町に引っ越せばいいのかと言えば、新住所が不安材料と無縁とは限らない。場合によってはその引っ越し自体が、さらに巨大な穴へと吸い込まれようとする取り返しのつかない過程なのかもしれない。
だから私から言えるのは、
「早急に町を出ようとは考えず、ひとまずコーヒーなどを飲んで落ち着いて周囲の草花や建物を眺めてみてはどうだろう? 答えを出すのはそれからでも遅くないはず」
そんなありふれたアドバイスでしかなかった。
ふと気がつくとテーブルの上ですっかり冷めてしまったコーヒーの黒さが、小さな穴のように見える。

2019/03/28

悲しみは人間を無口にする。町で長時間黙りこくっている人を見かけたら、何か悲しみに囚われている気の毒な人だと思ったほうがいい。
そこで「いったい何が悲しいのですか?」などと訊ねるような無粋な真似をしてはいけないのだ。それは岸辺にようやく泳ぎ着いて震えている人を、もう一度水中に突き落すような行為だ。
むやみに声を掛けたりせず、黙って少し離れたところに立っておどけた表情をしてみせたり、楽しい雰囲気の動きなどを披露して相手の気持ちをリラックスさせ、自然に笑顔があらわれるのを待つべきなのである。
もちろんその笑顔はつかの間のものであり、悲しみが癒えたというわけではけっしてない。まるでそういう仮面を被ったかのように笑顔が固定するのを待ってから、初めて口を開いて自己紹介を試みるのがいいだろう。
そんな状態にたどり着けるまで早くても三十分、場合によっては一ヶ月ほどを要することもあり、気長に構えることが大切だ。自己紹介ののちの第一声は、何か相手を褒める言葉を掛けるのが無難だろう。もちろんまだ何も会話は始まっておらず、相手について分かっているのは外見だけだから、当然それを褒めることになる。
「あなたの髪型はよく見ると個性的で、スーパーの青果コーナーに並ぶ様々な野菜を連想させるところがありますね。でも、その中のどれなのか特定することはできない。いわば、あなた自体が新種の野菜のようなものだ」
少々歯の浮くような台詞ではあるが、心に悲しみを秘めた人に贈る言葉には普段以上の熱気が必要なのかもしれない。
水から上がって震えている人には、焚き火が最高のプレゼントなのだから。

2019/03/27

道端にたたずむ石地蔵を横目に見ながら歩いていると、心の中に民話の「笠地蔵」が思い浮かばない者はいないだろう。
現代人である我々には、地蔵にかぶせるべき笠の持ち合わせはない。今時の気候であればそんな必要もないだろうが、それでももし今空から雪が降っていて、地面に深く積もりつつある状況だったらと想定した場合、自分は地蔵に何をしてやれるだろうかと思い描かざるを得ない。
近くのコンビニから笠ならぬ「ビニール傘」でも買い込んで、一本ずつ開いて地蔵に立てかけてやるというのが一般的な答えだろうか。
いささか風情に欠けるのは確かだが、それもまた民話を現代によみがえらせたときに生じる、ひとつの滑稽な効果として受け入れる準備は私にはある。
むしろ多くの人は地蔵の存在など見ぬふりをして、その前を行き過ぎるのではないか。それは手間や金を惜しむというより、石地蔵への親しみの感情が現代では失われており、道端にある人の形をした不気味な石という認識でしかないということだ。
そんなものにうかつに近づいたら、何か呪いのような超自然的な災厄が降りかかるのでは? という恐れから視線を遠くの看板や富士山などに向け、むりやり気をそらせることでその場をやり過ごす。そんな現代人にとって笠地蔵の民話もまた恐怖の対象でしかないだろう。雪降る晩に列をなして自宅にじわじわと近づいてくる石地蔵のことなど、考えたくもないというのが本音だ。
実際、信仰する者の減少した地蔵たちは首がない状態で放置されたり、陰惨な外見になっているものも多い。そんな不気味な地蔵に親切にしたところで、どのみち蛇の死骸とか事故現場の花などをかき集めてプレゼントしてくれるのが関の山だ。そんな気がしてならないとき、私の心からすでに笠地蔵たちは退場しているのである。

2019/03/26

花見をすることにとくに思い入れはないが、この季節になると近所の桜の木の開花状況などについ関心が向かってしまう。
花が満開になったところでその下にビニールシートを敷き、缶ビールやつまみなどを手にしばし時を過ごす人の群れに混ざりたい、という欲求は私にはないのだ。
毎年何人かに花見に誘われる気がするが、じっさいに参加したという記憶がない。それは事前に断っているか、参加したものの記憶がすっかり抹消されているかのどちらかだろう。
もしも記憶が消えているなら、よほど印象に残らなかったのか、逆に覚えているのが苦痛なほど不快な体験だった可能性もある。いずれにせよ参加すべきではないということであり、花見を計画している人たちにも「やめたほうがいいですよ」と親切にアドバイスをしたいという気持ちでいっぱいだった。
だがせっかく楽しみにしている花見に水を差されたことで、怒りに火のついた短気な人が私に向かって石を投げつけたり、刃物のように見える武器を手に詰め寄ってくることを思うとそんな親切心はうかつに発揮することはできないのだ。
誰かに親切にするということは、その人が望まない変化を人生にもたらす意味を持つことが多い。桜の花を見て酒に酔い、羽目を外してその場限りのストレス発散を望んでいる人に対し、
「短い人生にそんな寄り道をしている暇はありません、花を見る時間を使って図書館へ行けば本が一冊読めますよ」
などと正論を述べても、反発をおぼえた相手はますます図書館嫌いになり、活字離れはさらに進む一方なのである。
そうではなく、もっと相手の気持ちに寄り添うようなかたちで、優しく手を取って人生の方向転換につきあってあげる辛抱強さがこちらには求められるのかもしれない。
たとえば花見会場に前もって赴き、読むべき重要な本を花びらに一文字残らず書き写しておけば、花見をしながら自然に本の内容が頭に入ってくるので、楽しみを奪われたという禍根を残すことなく活字の世界へといざなうことができる。
そうした工夫をする気配がないまま「本が読まれない」ことを嘆くインテリたちの怠慢ぶりには、いささか疑問を覚えずにはいられない。

2019/03/25

無職の人間は毎日が休日だと思われがちだが、けっしてそんなことはないのだ。
それは会社員が本来所持しているはずの有給休暇を消化する権利を、職場の人員不足などの事情によって不当に奪われていることと似ているかもしれない。
無職の人間にも、毎日のようになんらかの仕事の命令が匿名で届けられる。それは郵便受けにメモ書きのかたちで投函されていたり、枕元の壁に貼り紙されていたりとさまざまな方法で伝えられるのだが、正式な雇用ではないから従ったところで給料などは振り込まれることがない。
そのかわり、豆腐や卵といった栄養のある食品や、トイレットペーパーなどの生活必需品が玄関先や枕元などに数日後に届けられるのだ。いずれも無職の身には大変ありがたいものばかりであり、ついどんな仕事でも請け負ってしまう。
仕事の内容はと言えば、
「公園の池に小石を三個投げ込んだのち、西側の出口を飛び出して最初に目に入ったトラックの荷台に忍び込め。やがて出発したトラックが赤信号で停車したところですばやく飛び降りて、近くのピザ屋へ飛び込み『ピザいりません!』と叫んだのち店を出たら右へ走れ。むこうから黒い犬を散歩させている老婦人が歩いてくるから、犬に丁寧に挨拶して終了報告をするように(老婦人にではないので注意)」
といったことが書かれているので、慣れないうちは戸惑うかもしれない。
だが何度か仕事をこなしていくうちに「こういう仕事内容は組織の中で甘やかされた会社員などには向いていない。やはり我々のような立場の者が担わなければ、この社会全体がうまく回っていかないのだろう」という気持ちになり、朝起きると自然と貼り紙を探すようになるのだ。

2019/03/24

銭湯の壁にはたいてい巨大な富士山の絵が描かれているが、あれは本当は富士山ではないのだという話を聞いたことがある。
富士山に一見そっくりではあるが、場所も高さもまったく違う山であり、しかも銭湯の一軒ごとにそれぞれ別の山が描かれているのだ。だからこの世には本当は銭湯の壁の絵の数だけ、富士山にそっくりな山があるという計算になる。
そんな山のひとつがもし近所に見つかれば、みんな早速話題にしてネットなどを通じてたちまち世の中に知れ渡るだろう。
だから富士山に瓜二つな山は、ふだん我々の目に触れないような場所、具体的には別な惑星などにあると考えるのが妥当だ。
この広大な宇宙に存在する無数の星の中には、富士山とこっそり入れ替えても誰も気づかないような外見の山もまた無数に存在しているのかもしれない。
そうした山のうちのひとつが、我が家の近所の銭湯に描き込まれているのだとすれば、入浴時によく見ればその山の頂上で手を振るグロテスクな外見の宇宙生物の姿が確認できるだろう。
もちろん、それをグロテスクと感じるのは我々の偏見であり、むこうの立場から見れば我々の姿もまた非常にグロテスクでありえない物なのだ。
とはいえ、科学が伝えるところでは宇宙の星のほとんどに生物は存在しないから、その富士山そっくりな山も無人である可能性のほうが遥かに大きい。
何とも寂しい話ではあるが、それがこの宇宙の現実なのである。

2019/03/23

人間は孤独を味わうことで過去の様々な出来事や、自分の身の回りに生じている各種の問題についての反省を、初めて開始することができるものだ。
個人的には、川べりの草むらなどに立っているとき私はもっとも孤独を感じることができる。もちろん孤独に浸れる環境は人によってさまざまであり、誰もが一日一度は川べりへ出かけるべきだなどと主張するつもりはない。
川音を聞いているとそれが人の声に聞こえてきて、まるで見知らぬ他人にひっきりなしに話しかけられているようで不快な気分になる、という人も中にはいるかもしれないからだ。
その場合すぐに川のそばを離れて、どこかの繁華街の人混みなどを歩いてみるのもいいだろう。大勢の人に囲まれることでかえって心が孤独を味わう、というタイプの人も実際存在する。自分がそうなのか、それとも自宅の居間などで無言で過ごしているともっとも孤独を感じるタイプなのか、そういった点は実際にいろんな場所に身を置いて確かめるしか方法がないのだ。
マンションの屋上や、公園のブランコが最適だという人の話も聞いたことがある。
だがもっとも孤独を感じられる場所が国外にある(アマゾンのジャングルなど)というケースは、移動のための交通費を考えると「ぜひとも孤独を味わうために現地に赴くべきだ」などと無責任に言うわけにいかない。残念ながら孤独になることを勧めるのを断念して、そういう人には何か気を紛らわせるような楽しい話などを聞かせてあげたいと思う。
水族館でペンギンの赤ちゃんが生まれた話などはどうだろうか。

2019/03/22

今日はいい天気だから私たちは七人でピクニックへと出かけた。
だが帰ってきたら私は一人しかいなかった。
はぐれたのかと思いあわてて道を引き返すと、先ほどみんなでコロッケ弁当を食べた丘の上まで戻ってきた。
すると私たちはちゃんと元通り七人揃っていた。
ほっとしてふたたび丘を下りて、我が家の近所まで帰ってきた。
すると私はまた一人に減っていた。
あわてて来た道を引き返す。
丘の上までたどり着くとちゃんと七人揃っている。
安心して丘を下りる。
だが家の近所に着くと一人。
それから丘と家を何往復しても丘の上では七人揃っているのに、家に帰ってくると一人なのだ。
しかたないので私たちはひとまず丘の上でしばらく暮らして、様子を見ることにした。
少々不便だし野晒しでまったく快適とはいかない環境だが、私たちが全員揃うにはそうすることしか思いつかなかったのだ。
だが本当に私たちはここには七人いるのだろうか。
不安なので、誰か丘まで数えに来てほしい。

2019/03/21

上空をヘリコプターが旋回する音が聞こえてくると、何らかの事件が発生しているのだと感じてつい浮足立ってしまう。
「私も出動しなくていいのだろうか?」
そんな焦りが文字になって心に浮かぶのも確かだが、私の携帯電話はここ数ヶ月ほど鳴っていないような気がするし、おそらく出動要請は出ていないのだと考えるとほっとして、ひとまずお湯を沸かし、コーヒーを飲むことにした。
とはいえ、いつ誰から緊急連絡が入って何らかの切羽詰まった現場へ急行しなければならないか、予想がつかないのも事実なのだ。だからのんびりドリップしている余裕はないのであり、コーヒーは常にインスタントを愛用している。
「最近のインスタントコーヒーは、けっして馬鹿にできない味と香りを実現しているような気がする。つねに売り上げという形で消費者からの評価にさらされている企業は、ちょっとした手抜きも許されない努力を義務付けられているようなものだ。競争原理が満遍なく覆い尽くした資本主義の社会において、品質と低価格の両立には目覚ましいものがあるが、それは下請けの工場で労働者が低賃金で奴隷のように酷使されている現実と表裏一体であることもまた、けっして忘れてはならないだろう」
そこまできちんと自分の意見を述べた後で、私はコーヒーカップに口をつけた。やや冷めかけていたが、私にとってはこれでもまだ熱すぎるくらいなのである。
カップの表面には大きく「猫」という文字が描かれている。もちろん、「猫舌」の「猫」だ。

2019/03/20

私の住むアパートには地下室がある。そのことを普段は忘れているが、たまに思い出すことがある。そしてまた、すぐに忘れてしまう。
思い出したところで、とくに地下室に用はないから訪ねることはないし、そもそもそこは私が借りている部屋ではないのだ。だから自分とは無関係なのだと思うと、すぐに意識から消えてしまう。
おかげで自分の住むアパートだというのに、そこに地下室があるのだということを思い出すことなく日々を過ごしていて、自分のアパートを思い浮かべるときは決まって建物の一階と二階だけだ。それだけではどこか物足りない、という気持ちになることもたまにはあった。せいぜい一年に二、三回くらいなのだが、そのときはもしかしたら地下室のことが無意識のうちに引っかかっているのかもしれない。
地下室のあるアパートというのは珍しいし、人に話せば感心されたり、くわしい話を聞きたいとせがまれることも予想される。実際に地下室に足を踏み入れたい、という希望者もいてもおかしくないだろう。
だがよく考えてみれば、地下というのは暗くて息が詰まるような厄介な場所だ。誰だって死ねば頼まなくても地面の下に収納されるのだから、わざわざ生きているうちに地下を訪ねる必要もあるまい。
私はそう答えて地下室の話題を唐突に打ち切ると、「春の訪れを歓迎する歌」を歌い始めた。
私が今日の昼頃に作詞・作曲した明るい曲調の歌だ。

2019/03/19

目の前に大きな木があった。私はたいていの木を見てもとくに感想を持つことはないのだが、その木にはどことなく南国の雰囲気のようなものを感じた。もしかしたら実際に、南の国から輸入されてきた品種なのかもしれない。植物に関してまるで疎い私には、それ以上はぼんやりと想像することしかできなかったのだが。
私はたまに南へ旅してみたいという気持ちに襲われることがあるのだ。それはとくに理由のない心の動きなのか、あるいは前世が南国の人間だったという具体的な理由がある可能性もある。暖かい地方へと電車で向かい、窓の外の景色がだんだんと夏めいたムードを醸し出し始める。まだ春の初めだというのに、麦藁帽子やアロハシャツで出歩く人を見かけたなら、そこはもうれっきとした南国の町だ。私はあわてて荷物を網棚から下ろし、出口へと向かう。駅のホームには熱を帯びた風が吹き、ほのかにフルーツの匂いが混じっている。
「ここは南国の駅なんですよね?」
念のため駅員にそう訊ねると、相手は黙って微笑むことで私への返答に代えるだろう。私の首にレイを掛けることはなかったものの、実質私の心は花の環に包まれたようなものだ。
太陽と海がこっちへおいでよと手拍子のようなリズムを刻む。そんな南国でのひとときを味わうために、本当は電車での旅は不向きだ。みなさんには飛行機か船をお勧めしておこう。

2019/03/18

もはやこの社会から、インテリとしての責務を果たす気概のある人間はすっかり失われたようだ。
高いレベルの教育を受けた者ほど、そのことで自分が世の中から何かプレゼントを生涯にわたって貰い続ける権利を持つのだと思い込んでいるふしがある。
インテリになるということは、すでにプレゼントを山のように受け取った結果だということがわからないほど、彼らの中には根拠のない被害者意識が広がっているのかもしれない。
城のように頑丈で一般人から手の届かない部屋の窓からしか、彼らは意見を述べようとしない。その意見もすべて、背後の本棚に並ぶ「正しい意見全集」に書かれた言葉の引用だ。うっかり油断して隙を見せた瞬間、ろくに授業に出たこともない野蛮人たちがデマに先導されて自分を襲撃してくるという妄想に、インテリたちは苦しめられているのだ。
そんな彼らの苦しみを取り除くには、インテリだけに配られる帽子などを政府が発行し、それを被ることで彼らの自尊心を満足させるなどの措置が必要だろう。
その帽子は一見したところ野球帽に似ているが、正面に刺繍されているのはどの球団のマークでもなく、その人物がインテリだということを示す賢そうなフクロウのイラストなのだ。
自分たちはフクロウのように知恵の象徴とみなされるべき人材なのだ、という自覚を促されることで、インテリたちはカーテンに閉ざされた暗い部屋を飛び出して、一般人との積極的な交流を開始するのかもしれない。

2019/03/17

メディアに登場する人たちはみなどこか人形のように生気に欠け、あらかじめ与えられた動きや言葉を律儀になぞっているだけのように感じられる。
それはドラマの登場人物などに限らず、ニュース番組のコメンテーターにしても同じことだ。街頭で時事問題についてインタビューに答える一般人でさえ、中身は無数の歯車が噛み合って動いている、よくできた自動人形のようにしか見えないのである。
あれではまったく、この社会に生きる人々の本当の声が伝えられているとは言いがたい。メディアは自らの本来の役割を放棄し、権力者の夢見る世界をおとぎ話のように再現することに専念しているのだろうか?
そんな暴挙が許されるべきではないと気づいた私は、たちまちアパートの玄関を飛び出すと、いかにもテレビのインタビュアーが現れそうな繁華街の人混みへとやって来た。もちろん、見落とされがちな市民の真実の声をメディアに乗せるためだ。
雑踏の中でしばらく周囲に目を凝らしたが、マイクを手にした人の姿は見当たらない。そのときビルの陰から見覚えのある顔の女性が現れたので「テレビで見た人かもしれない」と思ってじっと目で追ったところ、その女性もじっとこちらを見返してきた。
そのまま十秒間ほど見つめ合ったのち「近所のコンビニの店員だ」と気づいた私は視線を外し、ふたたびインタビュアーを探すことに集中した。

2019/03/16

毎朝起きると布団を出て、まず最初にするのがラジオ体操だという人は多いだろう。
子供の頃、夏休みの朝に普段以上の早起きをして公民館の前に集まり、みんなでラジオ体操をしたという思い出は意識の底に染みついて、知らないうちに我々の行動を支配している。
そのように、かつての何気ない習慣が無意識に現在の行動を縛り付けており、いわば自分が「過去の自分の操り人形」と化している例は少なくないのだ。
あなたが鶏の唐揚げを見るたび理由もなく涙がにじんできて、そのまま箸を放り出して泣き崩れてしまうのならば、それはあなたが幼少時に家で飼っていたニワトリが野良犬に噛まれて死んだ時の行動を、鶏の遺体を前にして再現しているのだと推測される。
ただ、あなたはその過去の出来事をまるで記憶しておらず、まるで役柄が体に染みついてしまった舞台俳優のように機械的に行動をくり返しているのだ。
庭の地面に穴を掘り、鶏の唐揚げを埋葬するところまで行けばさすがに「これは子供の頃に可愛がっていたニワトリを葬ったシーンの再現なのでは」と気づくだろう。だがあなたはそうはならず、さんざん泣き崩れた後にけろっとして「はて、おれは何が悲しかったんだろう?」と首をかしげながら目の前の美味そうな唐揚げをパクつき始めるのだ。
まったくあなたという生温かい肉塊の言動は矛盾に満ちており、一瞬も目が離せないのである。

2019/03/15

貧乏な人間が集まって何か会議をする場合、やはりその議題は「どうしたら金持ちになれるのだろうか?」という一点に集中してしまう。
そんなことより大事な論点が、この世にはいくらでも見つけられるのでは? というもっともな疑問の声が、おもに裕福な人々のほうから投げかけられるのも無理からぬ話だ。
「人間のエゴによって殺される動物たちのために涙を流したり、子供たちが邪悪なものから守られて澄んだ瞳を保てる環境づくりのほうが、金銭の話よりよほど重要なのでは?」
貧乏人たちを偏狭な視野から救い出そうと、裕福な人々はそんなさまざまなアドバイスを送ってくれる。
だが日々の生活費を捻出することで頭がいっぱいな貧困者は、そんな善意の言葉を素直に受け止めることができず、心無い言葉を投げ返してしまうことが多い。
「金持ちはいつもお気楽な夢物語に熱心なようだが、我々も今月の家賃や滞納してる年金のことを忘れて、たまにはそんな夢物語の語らいに参加したいものだ。そのために皆さんのあり余る財産の中から我々に当日の時給を払ってはくれまいか? 一時間につき1000円と交通費が振り込んでもらえるなら喜んで今すぐ、高級な家具や有名な芸術家の作品が並んだみなさんの会議室へと飛んでいくのだが……」
もちろん、そんな浅ましい子供じみた反論に裕福な人々がつきあう理由はひとつもない。
高級な家具や有名な芸術家の作品をケチャップなどの付着した貧乏人の手で触られたら大変なので、社会にはそれぞれのグループにふさわしい専用会議室が存在するのだから。

2019/03/14

自分のこれまでの人生を紙芝居に仕立て、全国各地を回って上演したい。そんな願いを持つ中高年の男女は多いことだろう。
実際に紙芝居を製作するには単に絵がうまいだけでなく、初めて目にする子供たちにも親しみやすい絵柄であることが重要だ。ただし古臭かったり、生理的な嫌悪感を催すような絵は問題外である。
子供の感受性は非常に鋭いが、同時にちょっとしたことでひび割れてしまうガラス細工のようなもろさを備えており、いたずらに刺激的なエピソードなどは適宜オブラートに包んで差し出すことも必要だ。
登場人物を動物のキャラクターにすることで、現実の持つ生々しさを軽減するという方法もある。
自分がモデルになっている登場人物を牛馬や犬猫として描くことには、抵抗を感じる人も多いだろう。中には「私が人間以下の存在だという意味なのか!?」と屈辱をおぼえ、そんなアドバイスをしてきた人間(紙芝居のプロなど)に棒で殴りかかるような人もいるかもしれない。
だが紙芝居を楽しみにして集まってくる子供たちは、けっして私たちの生臭い虚栄心や自尊心の展覧会を見に来るわけではないのだ。
かれらの新品のビー玉のような瞳に映し出すにふさわしい、夢となんらかの役に立つ教訓を与える優しげなストーリーを提供するのが、私たち大人の役割だと言えないだろうか?
そんなことを少しだけ心の底に留めておくことで、いずれ開始されるべき全国の「紙芝居の旅」が成功を収めるかどうかが、恐らく決定するのである。

2019/03/13

これといって仕事をしていない人間の特権として、
「思い立ったときにいつでもすぐに旅に出られる」
というのがあるのをご存じだろうか?
もちろん、仕事によって得られる収入がないのだから使える旅費には限りがある。なるべく交通機関を使わず徒歩で移動し、徒歩が難しい距離の場合は自転車や、ヒッチハイクなどの手段を用いるのがいいだろう。
もちろんホテルなどに高額の宿泊料を払うことは不可能だ。なるべく日帰りを心がけ、どうしても日をまたぐときは知り合いの家にお邪魔するか、親切そうな人を見つけたら後をついていき、玄関を入ろうとするところを引き止めて必死に懇願すればたいていの人は笑顔で泊めてくれる。
そんな出会いがきっかけでのちには家族ぐるみの付き合いになり、毎年年賀状のやりとりをする人などもどんどん増えていくものだ。
だがいつも年賀状を出している住所をヒッチハイクでひさしぶりに訪ねてみたところ、そこはもう何年も前から更地で、雑草が生い茂っている殺風景な土地に変わり果てていることもある。
では、私にいつも飼い猫の写真の印刷された微笑ましい賀状をくれる老夫婦は、いったいどこに存在しているのだろう?
そんな答えの出ない疑問に頭の中を占領されながら、この人生という長い旅もまた続いていくのである。

2019/03/12

これといって仕事をしていない人間が目を覚ますと、しばらく布団の中で考えごとに没頭した挙句、そのまま眠りの中へ引き戻されてしまうことがよくある。
その場合、考え事と夢の区別がつきにくいので、たとえば「窓の外で激しい雨の音がするぞ。これでは甥っ子の運動会は中止だな」と思って安心して二度寝したつもりだったが、実はその日は朝から一滴も雨の降らない快晴だったりすることがある。
「おじさん、運動会に応援に来てくれるって言ったのに嘘つき! おかげで徒競走でビリになっちゃったよ!」
などと後日甥っ子に叱られる破目になり、伯父としての面目は丸潰れだ。夕方までスヤスヤ寝ていたと正直に答えるわけにもいかず、何か急用があった振りをして適当に誤魔化さなければならないだろう。
もちろんこれは喩え話であって事実ではない。現実には甥っ子は大学をとっくに卒業しており、三十近い今もこれといった就職先がないままふらふらしているからだ。
だから彼の出場する運動会を見学する機会は、おそらく永遠に訪れないのである。

2019/03/11

私たちが生まれた頃に世の中を動かしていた人々のうち、今では何パーセントくらいが存命なのだろうか?
年齢を重ねるほどにその数字は減っていき、ゼロへと近づいていく一方なのだが、それは自分にとって故郷のように当たり前だった世界がしだいに奈落へと崩れ落ちていくことを意味している……。
あの頃目の前に広がっていた活気に満ちた社会は、今では半分以上が地面の下へと消えてしまった。そこに暮らしていた人たちの喜怒哀楽は、ただの白骨の取る様々なポーズに取って代わられ、不気味な人形劇のように土の中で続きを演じられているのかもしれない。
過ぎ去った時代を懐かしみ、そこで経験した出来事を甘いポップスの歌詞のように反芻することは、そのような白骨たちの劇場に自らも参加することではないだろうか。だとすれば地面の下で身動きが取れず呼吸もできない、という地獄の苦しみと引き換えにしか、そのストーリーへの参加権は入手できないのだと思われる。
近所の墓地を歩いているとそんな考えが頭に浮かび、咄嗟にメモを取るものがなかったので地面に落ちていた古釘を拾い、手近な墓石の裏側に書き込んでおいた。
だが家に帰るとそんなことはすっかり忘れてしまったので、今日数年ぶりにその墓地を訪れたところ偶然にもメモ入りの墓石を発見。そのため、ようやくこうして晴れてメモの内容を世に出すことができたのだ。
こんな不思議な縁を感じる出来事もまた、死者たちから現在の私たちに託された何らかのメッセージなのかもしれない。

2019/03/10

どこからか甘い洋菓子のような匂いが漂ってくる。それは現実の菓子の匂いというより、心の中で思い描いた架空の食べ物から匂ってくるもののように感じられた。
だから私の頭に現れた映像は、見慣れたケーキやクッキーといったものではなく、才能のあるデザイナーがインスピレーションを信じて咄嗟に筆を走らせたような、斬新で鮮やかな形と色の菓子だった。
そのためすぐには食欲を感じることができず、しばらく自分の頭の中をじっと見つめていた結果、ようやくじわりと唾液が湧いてくるありさまだった。
「こうした見慣れない食品に食欲を覚えるたび、自分がとらわれている食文化の貧しさを思い知らされることになる。生まれ育った環境によって、人はごく狭い範囲の味覚に縛られる運命にあるのだ。積極的にその殻を破っていかない限り、他者への偏見をまるで文化的な特権であるかのように身につけて誇るような、最悪の人間になってしまうことは目に見えている。たとえば『老人の穿き古した肌着』にそっくりな食べ物があるとして、それが栄養満点なうえなかなかの珍味である可能性に思いを馳せることが、どれだけの人に可能だろうか? その程度の想像力へ足を踏み出す勇気もないまま、他人をまるで野蛮人のように扱う態度がこの国のインテリたちに蔓延しているのだとすれば、もはや未来に何の希望も持てないのかもしれない」
そのような思考を進めるうちにすっかり暗い気持ちになり、私の周囲からあの甘い匂いは消え失せてしまっていた。
もう一度匂いを味わうために、私は気持ちが明るくなるようなこと(見知らぬ富豪から何の前触れもなく遺産がプレゼントされることなど)を想像してみた。だがなぜかそれは叶わず、私はカビと埃の混じったような匂い(嗅ぎ慣れた、我が家の匂いだ)を思い切り吸い込んだだけだった。

2019/03/09

シャープなデザインの眼鏡を掛けた知的な雰囲気の女性が、自動車が激しく行き交う道路の隅を悠然と歩いていた。
女性は両手で新聞を開いており、読みながら歩いているのだ。おそらく一日が二十四時間では到底足りず、わずかな移動の時間も情報収集に充てなければならないほど多忙な身の上なのだろう。
やがてダンプが横を通り過ぎると、突風を受けて新聞が吹き飛ばされてしまった。だが女性は少しも慌てることなく、すばやくバッグから文庫本を取り出して今度はそれを読みながら歩き続けた。
飛ばされた新聞を拾う時間も惜しいのだと思われる。おそらくあの文庫本が飛ばされた場合、またすばやく次の何らかの印刷物がバッグから取り出され、間をあけず女性の頭脳に情報を送り込むことになるはずだ。
そう感心しながら見ていると、彼女の手から飛ばされてきた新聞が風にのって私の足元までたどり着いた。
何気なく拾い上げたところ、それは新聞と同じ手ざわりの紙に一見新聞そっくりのデザインで印刷されていたが、内容は「身長五十メートルの人間は存在しない」という文字列がくりかえし印字されているだけだった。
私は最初から最後まで紙面に隈なく目を通したのだが、大小さまざまなフォントを駆使しながら、それ以外の文言はついに一文字も見当たらなかったのである。
目を凝らして作業に没頭している間に、どうやら私はあの知的な雰囲気の女性の姿を見失ってしまったようだ。
だが知的に見えたのは外見だけで、実際はそうでもなかったのかもしれない。

2019/03/08

隣の家の夫婦は、夫がどことなく墓石に似ていて、よく見ると妻が卒塔婆に似ている。だから夫婦そろって町を歩いているところを見かけると、私は何となく先祖の墓参りに行きたいような気分になってくる。
それはけっして悪いことではないだろう。最近では日々の多忙に紛れて墓参りなどが疎かになっている家庭が多いのではないだろうか? 先祖を敬うという心には、自分の足元を見つめて明日からの人生をしっかりと歩いていく力になるものが含まれているような気がする。今は単なる白骨として地面の下に埋められている人々も、かつては洋服を着たり眼鏡を掛けたりして生き生きと活動していたのだと思うと、なんだか胸の奥が温かくなるような不思議な気分だ。
そんな貴重な体験をさせてくれる隣の家の夫婦に、私はいつも心の中で感謝の気持ちを伝えるのに余念がなかった。そのテレパシーがとうとう通じたのだろうか? 今日は前を歩いていた彼らが同時に振り返ってこちらを見た。だが私の顔を覚えていないのか、二人は無反応のままふたたび前を向いて歩き始めた。やはりこんなご時世とはいえ、近所づきあいは積極的にすべきだと痛感させられる出来事であった。

2019/03/07

他人に不快感を与えないような服装と髪型、そして毎日風呂に入って清潔さを保つなどの努力を怠っている人間は、本来なら職場という名の戦場に現れるべきではない。そんな人物が視界に入った途端、仕事のモチベーションは下がることが確実なので、目に入れぬようずっと首を曲げていなければならないため極度の肩こりや疲労の原因になるからだ。
また不潔さがもたらす悪臭から逃れるため、ずっと鼻をつままなければならないから片手で仕事をすることになり、効率が落ちて会社の業績にまで響くことは確実なのである。
社会人として生きるということは、そのような日々の心掛けによってつくられた舞台の上で力を合わせ、ともに「金を払ってでも働きたい職場」という夢のチームを築き上げることを意味している。
そのチームの和を乱すようなやる気のない態度を持ち込むことは、会社という船の上でたき火を始めるような非常識な行為であり、厳に慎まなければならないのだ。
たとえあなたが現在会社員でなくとも、この資本主義の世界では無職もまた立派な会社員予備軍であり、家の近所を意味もなく散歩しているときでさえ、長い目で見れば会社への通勤途中にあると言えるのだ。もちろん通勤手当は支給されないが、アイスなどを食べて独り言をつぶやきながら児童公園のまわりをうろついていても、何かの拍子に自分にもっともふさわしい運命的な職場の前にいつのまにかたどり着いているかもしれない。
そんなときのために備えて、あらかじめ散髪へ行ったり風呂に入ることで身だしなみを整えておくことが、現代社会に生きる者の最低限のマナーだと言えるだろう。
「資本主義はけっして君を見捨てない」
そんな巨大な力強い文字が、春の雲のかたちをして青空に浮かんでいるような気が、恐らくあなたもしているのではないだろうか?

2019/03/06

道を歩いていたら、壁に貼紙のある一軒家の前を通りかかった。
その家は見るからに生活感がなく空き家のようだった。ということはきっと、住人募集の貼紙でもしてあるのだろう。そう思った私が「こんな家には絶対住みたくはないな。だから貼紙を読む必要はないだろう……」と思いながら通り過ぎようとしたとき、貼紙がいきなりこちらに向かって飛び出してきた。
「うわっ!」
驚いて声を上げた後でよく見ると、それは紙などではなく白いドアで、家からは見知らぬ中年男が顔を覗かせていた。
「びっくりさせてしまいましたか? 大変申し訳ありません」
口ひげを生やした、見るからに不気味な雰囲気の男だったわりに口調は丁寧だった。
しかもその手には美味しそうな中華まんがひとつ載せられていた。
「驚かせてしまったお詫びに、よろしければ召し上がってください」
そう言って差し出された中華まんを私は遠慮なくいただくことにした。
「これは肉まんですか? それともあんまんでしょうか?」
そんな質問が口から飛び出しそうになるのを私は必死にこらえた。
中身を知らずに食べたほうが、ちょっとしたミステリアスな気分を味わえることに気づいたからだ。
「では、いただきます!」
そう言って齧りついた白い饅頭の皮の下から、予想外の味と香りが口の中に広がった。
「ピザまんだ」
そう思った瞬間私は口の中のものを吐き出し、食べかけの饅頭を地面に叩きつけていた。
私が大のピザまん嫌いだということを、この中年男は知らなかったのだろうか? だとしたら無理からぬ話とはいえ、こんな不味いものを他人にプレゼントする者の気が知れない……。
そんなやり場のない怒りにかられて家の方を見ると男の姿はなく、白いドアがあったはずの場所には大きな貼紙がされていた。
その紙には入居者募集の事務的な文言だけが記されている。提示されている家賃が破格の安さだと気づいた私の意識は貼紙に吸い寄せられた。
ピザまんを食わされた不快感など、すっかり吹き飛んでしまった格好だ。

2019/03/05

近所に行きつけの店を持ちたい、というのが私の以前からの願いだった。
だからたまたま目についた店のドアを開けたのだが、看板が緑色だったのがその一番の理由だ。今日偶然にも私は緑色のシャツを着ており、まるで自分がその店を訪れるための制服を着込んでいるような気がしたのである。
ところが足を踏み入れると、店員らしい男も客らしい男や女も、みな様々な色や柄の服を自由に着こなしていた。誰一人として緑色の衣類を身につけてなどいなかったのだ。
私は非常な屈辱と恥ずかしさをおぼえ、たまらず店を飛び出していた。
「今の男、緑色のシャツなんて着てたよな」
「うちの看板が緑色だから、仲間だと思ったんじゃないですかね?」
「そういう感覚がダサいんだよね。この店にもっともふさわしくないタイプだよ」
そんな常連客と店員の会話が背後から聞こえてくることを予想したのだが、実際には私はその声を耳にすることはなかった。
あまりにも素早く店を飛び出したため、彼らの目には私の姿が見えなかったのかもしれない。
「今一瞬何か緑色のものが目に入ったな」くらいのことは、もしかしたら思ったかもしれないが。

2019/03/04

人のよさそうな老人を見かけると、そんな外見とは裏腹に他人を虫けらのように扱い、散々傷つけてきた冷酷な過去が透けて見えるような気がするのはなぜだろうか。
人は見た目ではわからないものだ、という一種の信仰を私が抱いているのだとすれば、それは人相の悪い人物を見かけたら泥棒や殺人犯だと思うのと同じように、やはりひどい偏見にまみれていると言わざるを得ない。
だが、いっさいの先入観を抜きに他人と向き合うことは果たして可能なのか。多くのハラスメント行為の被害を受けたことのある上司にそっくりな人物と、長年に渡って大ファンである俳優にそっくりな人物がいたとして、あなたなら道に迷ったときどちらに道を訊ねようと思うだろうか?
おそらくほとんどの人が後者を選ぶだろう。実際には後者が逃走中の殺人鬼であり、片手に血の付着した刃物を持っている場合でも「料理中のコックさんなのかな?」などと好意的な解釈をし、自らの命を縮める結果を招くかもしれないのだ。
だがハラスメント上司によく似た人物が、中身も上司に似ていないという保証もまたないのである。ここにはただ人生に無数に存在する選択肢とは別の意味で、心を迷路に送り込むような先入観の森が枝葉を茂らせているのは確かなのだ。
もっとシンプルに力強く「右か、左か」だけの判断で生きられるような、この先のステージへ進むために我々が脳に何らかの手術などを受けるべき日が、刻一刻と近づいているのかもしれない。
それはある日突然始まる。ランダムに一人ずつ呼び出されて簡易な手術台に横たわる私たちの耳元には、意味の分からない天使語のコーラスのようなものが、まるで外国のラジオ放送のようにかすかに聞こえているのである。おそらくその歌詞の意味さえ解読できれば、こんな非人道的な手術は回避できるに違いないとなぜか思い込みながら、私たちは麻酔で気が遠くなっていくのかもしれない。

2019/03/03

町には無数の家があり、そのどれもが唯一の家庭の景色を内部に秘めているはずである。
小高い丘から見下ろせば、どの家も大した違いはなく、こっちの家とあっちの家の中身を気まぐれに入れ替えても別に不都合はないように見える。
ところが実際にそんなことが(もし可能なら)実行された場合、とんでもない騒ぎになることは必至なのである。
我々はたとえ既製品のようにありきたりな家庭生活を送っていても、そこにまるで自分の魂にぴったりな、収まるべき専用ケースのようなものがあると感じている。もちろんケースの大きさや形は全部同じであり、自分の魂もまた大量生産された既製品に過ぎないのだが……。
この資本主義が見せる行き止まりの景色のような世界で、いったい私たちインテリはどんな「次の景色」へのサジェスチョンを大衆に与えればいいのだろうか?
私たちには見えているその景色を、簡単なイラストにして大衆に提示することは可能だが、それでは海を知らない人物に青く塗った紙を「これが海ですよ」と言って手渡しているに等しいことのような気がする。
もちろん大衆はその紙を海だと信じて大事に箱に入れて保管する。大衆はお菓子の空き箱などを利用した「大事なもの入れ」を所持しているのが一般的であり、時々蓋を開けては中身を取り出して眺めることがある。
もちろんそれは日々の労働に疲れた心を癒すための行為だが、かれらが望んでいるのはイラストの世界に飛び込んで新しい人生を始めることではない。現状に添える彩りとして、ちょっと変わったイラストが眺めたいだけなのだ。そのイラストから白い手が飛び出てきてシャツの裾を掴み、絵の中へ引きずり込もうとすれば大衆は必死になって抵抗し、大声で助けを呼ぶだろう。
そのように臆病で保守的な生き物が大衆なのだということを、しっかり肝に銘じておかなければ無駄な期待と失望の間で振り回されることになる。その点はインテリの間で喫茶店などで待ち合わせて定期的に話し合い、もっと情報が共有されるべきなのかもしれない。

2019/03/02

ひたすら自らのみすぼらしさを見つめて孤独に耐え続けねばならない「私」という牢屋から解放され、意思のない有象無象の中へと溶け込むのが「奴隷の自由」だとすれば、そんな有象無象の群れの密集した息苦しさから解放される引き換えとして「私」という密室に一生閉じ込められるのが、「牢屋の自由」なのだと言えるだろう。
人類はかつて、奴隷の自由を捨てて牢屋の自由を手に入れることに成功した。ところが近頃では長い歳月にわたる孤独に疲れ果て、結局「私」一人にできることなど何もないと悟ったかのように人類はふたたび奴隷の自由へと引き返そうとしているところではないだろうか?
だが私にも「奴隷の自由より牢屋の自由の方がマシだよ」などと人々を気軽に引き止めるような自信も資格もないのである。
いくら人々より多くの時間をこの社会をより良いものにするための思考に費やしているとはいえ、そこまで傲慢な態度はとれないというのが本音なのだ……。
だから私としては、この社会にまだ見ぬ「本当の自由」が訪れる爪の先ほどの可能性をまだ諦めるべきではないのでは。という提案をさまざまな場で行いたいものだと思い、今日は近所の老人たちが集うサロンのような場所へ赴き、目が合った老人から順番にこのような提案を投げかけてみたのだ。
だがインテリの悪癖だろうか? 結論を急ぎ過ぎる私の理路整然とした語り口は、高齢者たちののんびりした生活リズムと噛み合わなかったようだ。誰もが最後まで耳を傾けることなく嫁の悪口や囲碁の対局などの続きに戻っていったのである。
やはりこれからの社会についての問題提起を残り僅かな寿命にすがる老害どもに説いても意味がない、ということを痛感させられる出来事だった。
未来ある若年層の集う洒落た雰囲気のカフェなどを訪問するため、私はふたたびアパートの玄関を飛び出していった。

2019/03/01

「おまえの生き方は根本的に間違っている。自分の人生にとっても、周囲の人の生活にとってもひたすら害悪をまき散らす以外のことをしていないことがわかっているのか? そこには目を覆うばかりの惨状が広がっているのみ。いっそ思い切ってゼロからすべてをやり直すつもりで、今すぐここから飛び降りてしまえばどうか? それが私からの提案だ。今すぐここから飛び降りてしまえ!」
そんな厳しい意見を含んだ怒声のようなものが、どこからか私の耳に聞こえてきた。
だが飛び降りようにも私は平坦な地面を歩いている最中であり、もし怒声の意見が正しいのだとしても、それに従う方法が見当たらない有り様なのだ。
おろおろと周囲を見渡していると、ふと雑草の上に置き去りにされたメタリックなボディの機械が目についた。
それは最新の機能を備えた高価なラジカセのようだった。その透明な窓から覗く高音質のカセットテープがくるくると回転していることが見て取れる。
「おまえの生き方は根本的に間違っている」
ふたたびラジカセのスピーカーが説教を開始した。私はその内容をあらためて吟味したいと思い、メモ帳を片手にテープの音声に耳を澄ませた。
そのとき私は自分が相当な尿意を感じていることに突然気がついたのである。
「あっ、どこか近くにトイレがないか確認したうえで、すぐにそこに駆け込まなくては大変なことになるぞ!」
そう全てを言葉にするかしないかのうちに、私は尿を漏らしていた。
なんとも不快な感覚が下半身に広がり、思わず私は顔をしかめた。
だがすでに漏らしてしまったものを悔やんでもどうにもならない。ここは前方だけを見つめて、今できることをよりよき未来のために積み上げていくことが大切なのではないか?
そう判断した私は、ふたたびラジカセの音声に意識を集中させた。