2019/03/03

町には無数の家があり、そのどれもが唯一の家庭の景色を内部に秘めているはずである。
小高い丘から見下ろせば、どの家も大した違いはなく、こっちの家とあっちの家の中身を気まぐれに入れ替えても別に不都合はないように見える。
ところが実際にそんなことが(もし可能なら)実行された場合、とんでもない騒ぎになることは必至なのである。
我々はたとえ既製品のようにありきたりな家庭生活を送っていても、そこにまるで自分の魂にぴったりな、収まるべき専用ケースのようなものがあると感じている。もちろんケースの大きさや形は全部同じであり、自分の魂もまた大量生産された既製品に過ぎないのだが……。
この資本主義が見せる行き止まりの景色のような世界で、いったい私たちインテリはどんな「次の景色」へのサジェスチョンを大衆に与えればいいのだろうか?
私たちには見えているその景色を、簡単なイラストにして大衆に提示することは可能だが、それでは海を知らない人物に青く塗った紙を「これが海ですよ」と言って手渡しているに等しいことのような気がする。
もちろん大衆はその紙を海だと信じて大事に箱に入れて保管する。大衆はお菓子の空き箱などを利用した「大事なもの入れ」を所持しているのが一般的であり、時々蓋を開けては中身を取り出して眺めることがある。
もちろんそれは日々の労働に疲れた心を癒すための行為だが、かれらが望んでいるのはイラストの世界に飛び込んで新しい人生を始めることではない。現状に添える彩りとして、ちょっと変わったイラストが眺めたいだけなのだ。そのイラストから白い手が飛び出てきてシャツの裾を掴み、絵の中へ引きずり込もうとすれば大衆は必死になって抵抗し、大声で助けを呼ぶだろう。
そのように臆病で保守的な生き物が大衆なのだということを、しっかり肝に銘じておかなければ無駄な期待と失望の間で振り回されることになる。その点はインテリの間で喫茶店などで待ち合わせて定期的に話し合い、もっと情報が共有されるべきなのかもしれない。