2019/03/04

人のよさそうな老人を見かけると、そんな外見とは裏腹に他人を虫けらのように扱い、散々傷つけてきた冷酷な過去が透けて見えるような気がするのはなぜだろうか。
人は見た目ではわからないものだ、という一種の信仰を私が抱いているのだとすれば、それは人相の悪い人物を見かけたら泥棒や殺人犯だと思うのと同じように、やはりひどい偏見にまみれていると言わざるを得ない。
だが、いっさいの先入観を抜きに他人と向き合うことは果たして可能なのか。多くのハラスメント行為の被害を受けたことのある上司にそっくりな人物と、長年に渡って大ファンである俳優にそっくりな人物がいたとして、あなたなら道に迷ったときどちらに道を訊ねようと思うだろうか?
おそらくほとんどの人が後者を選ぶだろう。実際には後者が逃走中の殺人鬼であり、片手に血の付着した刃物を持っている場合でも「料理中のコックさんなのかな?」などと好意的な解釈をし、自らの命を縮める結果を招くかもしれないのだ。
だがハラスメント上司によく似た人物が、中身も上司に似ていないという保証もまたないのである。ここにはただ人生に無数に存在する選択肢とは別の意味で、心を迷路に送り込むような先入観の森が枝葉を茂らせているのは確かなのだ。
もっとシンプルに力強く「右か、左か」だけの判断で生きられるような、この先のステージへ進むために我々が脳に何らかの手術などを受けるべき日が、刻一刻と近づいているのかもしれない。
それはある日突然始まる。ランダムに一人ずつ呼び出されて簡易な手術台に横たわる私たちの耳元には、意味の分からない天使語のコーラスのようなものが、まるで外国のラジオ放送のようにかすかに聞こえているのである。おそらくその歌詞の意味さえ解読できれば、こんな非人道的な手術は回避できるに違いないとなぜか思い込みながら、私たちは麻酔で気が遠くなっていくのかもしれない。