2019/05/31

〈令和〉という名の新時代が到来してから早くも一ヶ月が経とうとしている。
新時代になってからというもの、この社会は何もかも変わってしまった。
隣の家の子供は毎日宿題にキチンと取り組むようになったらしく、母親の鬼のような怒鳴り声が毎晩聞こえてくることがなくなったのはその一例だ。
近所の野良猫が庭先に糞を残していくこともなくなったし、 我が家にムカデやナメクジなどが無断で侵入することもすっかりなくなったのである。
まさかこんなに何もかもが良いほうへ変わってしまうとは、私もまったく予想していなかった。いくら時代が変わると云ってもただ表面的なもので、同じ菓子をパッケージだけ変えて再発売するようなものだろう、と正直なところ高を括っていたのだ。
ところが蓋を開けてみればこの通り。世の中はまるで長い悪夢から目覚めたかのように突然素晴らしい状態になり、毎日「今日はこの社会のどんな素晴らしい部分を発見できるだろう?」と楽しみでしかたない。
そして期待を裏切ることなく、かつて「世の中はこんなもんだ」と諦めていた地獄のような状態が嘘のように改善されているのを、今日もまた発見することになるのだ。嬉しさのあまり公園のベンチから駆け出した私は、全速力でこの町の道路を一周してしまった。
「今日は安売りスーパーの商品がさらに安くなるどころか、豚肉が全部無料だった。今夜はさっそく豚しゃぶを腹いっぱい食べるぞ!」
そう甲高い声で叫びながら走っている最中も私は「明日はいったい何が無料になっているだろう? 牛肉かな?」と心の中で想像せずにはいられなかった。
もちろん、豚しゃぶよりも牛しゃぶが食べたいのは云うまでもない話なのだ。

2019/05/30

「マルセル・プルースト著『失わた時を求めて』か……」
私は書斎の本棚からなにげなく取り出した一冊の本の、表紙に書かれていた文字を読み上げた。
べつに部屋に来客があったわけではないので、蔵書を話題にしたり自慢するために書名を口にしたのではない。
無意識に声に出ていただけであり、誰もが経験のあるありふれた独り言にすぎなかった。
私は椅子に腰かけて本を膝に乗せると、表紙の手ざわりをしばし味わったのち、おもむろに開いてみた。
すると最初のページには、チンパンジーらしい猿の死体の写真が印刷されていた。
不意を衝かれて私は呆然とそのページを眺めた。モノクロ写真の中にうつろな目で横たわる猿を、それ以上凝視するのはしのびないと感じたので私はあわててページをめくった。
すると次のページにも、やはり猿の死体写真が印刷されていたのだ。
一匹目とほとんど同じ構図だけれど、微妙に体つきが違うので別の猿なのだろう。
私は表情を曇らせてまたすばやくページをめくった。
だが次のページにもまた、地面に横たわる猿の死体の写真が印刷されていた。
かつては映画の中で動物が死ぬシーンがあると、じっさいに撮影現場で動物が殺されていたと聞いている。
だが最近は動物愛護の精神が浸透したため、そういう残酷な行為は現場から一掃され、動物が死ぬシーンは訓練された動物による演技か、CGで本物そっくりに合成された動物の映像なのだ。
だからこれらの死体写真も、本物の猿の死体などではなく、死んだふりをしている猿の写真か、CGなのかもしれない。私はそう考えることで心を落ち着けようとした、
だがこの本は相当昔に書かれたもののようなので、動物の権利への意識が低かった時代だから当然のことのように死体写真を撮るために、実際に猿が殺されたのだろう。
「まったくプルーストというのはひどい奴だな……」
私は不機嫌な声でつぶやくと、ついまたページをめくってしまった。するとそこにもまた、無残な猿の死体写真が印刷されていたのである。
どうやら猿の死体以外は何も載っていない本らしい。しかも本棚を見たところ、一冊だけでなくまだこの先何巻も続くようなのだ。
二巻目はいったいどんな動物の死体が掲載されているのだろうか?
好奇心が抑えきれなくなった私は、思わず本棚に右手をのばした。

2019/05/29

午後の自室で私は熱いコーヒーを飲みながら、過去の様々な出来事を思い起していた。
それなりに長く人生を生きてしまった以上、心に浮かぶあれこれの場面はその一つ一つに長時間とどまっておれないほど数が多すぎて、つい早送りのビデオのように散漫に眺めてしまう。
あるいは列車の窓から見える景色のようなもの、と表現すればいいだろうか? あれはいったいどんな意味のある出来事だったのだろう、あの人は私に何をもたらしてくれた人物だったのだろう、そんなことをていねいに振り返る余裕はなく、あっという間にすべては過去の闇の中へふたたび飲み込まれていく。
こんなことでは、せっかく忙しい日々の隙間を使って過去をふりかえっても意味はないのだ。単なる時間の無駄であり、こういう作業は死の床についた老人にでも任せておけばいい。
そう判断した私はアパートの玄関ドアを勢いよく開けて、輝く太陽の下へと躍り出た。
そしてたまたま目に入った総合病院に駆け込むと、閉まりかけていたエレベーターに乗り込み、そのまま上へと自動的に運ばれていく。
やがてエレベーターが勝手に止まり、開いたドアから看護師らしき女が乗り込もうとして来る。私はその女を必死に押しのけて外に飛び出ると、最初に目についた病室に飛び込んだ。ベッドに横たわる見ず知らずの人を「頑張ってください!」と激励した私は、そのままふたたびエレベーターに乗って地上へと帰っていった。
人生の時間をうっかり無駄に過ごしてしまったと感じたときは、その埋め合わせに何か有意義な行動をしたいという気持ちに人は駆られるものらしい。
そんなときは気軽にボランティア活動に身を捧げるということがあってもいい。そんな貴い文化がこの国に根付くことで、ボランティアを偽善呼ばわりするようなひねくれた態度が社会から一掃される日が来るのを、私もまた願ってやまないのである。

2019/05/28

この辺りは最近野犬が多く出没し、外を出歩くのにもいつも周囲を警戒せずにいられない。電柱などに「野犬に注意!」と書かれた張り紙を見ることも増えていた。
さいわいまだ野犬に襲われての死者は出ていないようだ。子供や老人が襲われたという話は伝わっているが、命に別状はなかったのだろう。とはいえ血に飢えた野犬のことだから、非力な人間の手足を食いちぎるくらいのことはしていると思う。たとえ手足を複数食いちぎられても、適切な応急処置さえ行えば命は助かるのだから悲観する必要はないのだ。
山奥や砂漠などでは話が別だが、こうした住宅街ではちょっとした悲鳴を耳にすれば誰もが気軽に警察に通報するはずだ。そのために親しい間柄での喧嘩や悪ふざけが犯罪と勘違いされ、パトカーが急行してきたという苦い経験は多くの人がしているはずだ。
だが人が気軽に通報するという習慣を失ってしまえば、本当の犯罪や事故が発生したときに必要な救いの手が得られない、という弊害があるのだから、少々不愉快な経験をしたとしても通報者や警官を恨んだりせず、帰り道に酒などを飲んで忘れてしまうのがいちばんいいだろう。
おそらく野犬に関しても、多くの誤報が警察署には寄せられているはずだ。深夜の街路を野犬が徘徊しているというので駆けつけると、黒いジャージを着て闇に紛れた飼い主が散歩させている犬だった、などということが頻発している気がする。
だが目を凝らしてよく見れば、飼い主だと思ったのは野犬に襲われた犠牲者で、犬の首に繋がっているリードに見えたのは、犠牲者のはらわたを野犬が引きずり出しているだけなのかもしれない。
できればそんな凄惨な場面は見たくないものだが、それは警察の人も同じだろう。凶暴な野犬のことも無意識のうちに「かわいいワンちゃんだな」という目で眺めてしまうことがあって、野犬の捕獲が思いのほか進まないという現状のような気がする。
とくに愛犬家の警官にとっては、とてもつらい仕事になるだろう。
だが犬が可愛いあまり、犬に食い殺される人間を見て見ぬふりをするというのは人道的に許されないことだ。あくまで人間が第一。どんなに嫌いな人間や、自分とは政治的な立場が真逆の人間でも、食い殺されるのは阻止しなければならないというのが我々に残された最後の倫理なのではないか。
そこに踏みとどまらなければ、もはや犬猫以下の存在に堕ちるしかない。

2019/05/27

注意深く歩いていたつもりが、つい水たまりにはまってしまった。それも思いのほか深かったため、その一歩を踏みしめると同時に、じわりと足の裏に水がひろがっていくのを感じた。
私は日頃さまざまな対象について考えを巡らせ、物思いにふけることが多い。だから天候などにはあまり意識が向かわないため、水たまりができるような天気の日が最近あったのか、思い出すことができなかった。
もちろんじっさいに雨の降っているときに無頓着でいることはできないため、天気予報などを気にしないかわりに、つねに鞄に折り畳み傘をしのばせてある。
少々荷物が重くなるのが難点だが、そのぶん意識のリソースをその日の天候の変化へと割かなくていいため、私のライフスタイルにはむしろ合っているのだと云える。
これは私と似たようなライフスタイルの人々、つまり知的な職業に従事する自由業者ということになるだろうか? そんな諸君にはぜひともお勧めしたいところだ。知的であることが必ずしも収入に結びつかない昨今、にわか雨のたびに視界に入ったカフェに駆け込んだり、ビニ傘を購入したりするのでは経済的な負担も馬鹿にならないのだから……。
さて、私は水たまりからゆっくりと足を上げると、それを手近な乾いた路面へと下ろした。
それからふたたびそっと足を持ち上げると、路面には私の靴の底の模様がスタンプのように印されているのが確認できた。
自分のふだん履いている靴の底の模様など、こんな機会でもなければめったに見ることはない。どんな失敗からもそこからしか取り出せない可能性を見いだし、すぐに頭を切り替えてその可能性に賭けられるということが知的な人生への第一歩なのである。
私は興味深く路面を眺めつづけた。時おり手帳にメモを取り、ひどく感心したように何度もうなずきながら。

2019/05/26

何かとてつもなく重大な事実が私の心を押しつぶし、粉々にして風に吹き飛ばされたのちに、何食わぬ顔でまた私の中に心のようなものが生まれて、今ではそれが我が物顔で居座っている。
どうやらそんなことがかつてあったような体感が、日々の暮らしの底によこたわっていることが感じられた。
心が入れ替わってしまった以上、私はもうかつて味わっただろう途方もない重圧にみまわれることは二度とないのだろう。それはすべての記憶が消えて別人に転生したことに似ているが、この場合は記憶は失われたわけではなく、おそらくその気になればいつでも思い出せるようなものでしかない。
にもかかわらず、かつてそこから受け取ったような重苦しい圧迫は感じられず、ほかの無数の些事の中に紛れ込んでしまっている。この奇妙な居心地の悪さは、しかしはっきりと理由を示せるようなものではないのだ。
ここまで私が語ってきたことはすべて証明不可能な想像にすぎないし、実際にはそれとよく似た、またはまったく似ていないが結果だけは似たものをもたらすような、まるで別な体験が私を変えてしまっているのかもしれない。
そんな考えごとに気を取られている間に、私の帽子は突風に飛ばされて橋の欄干を越えていた。
あわてて手をのばすが指先にかすりもせず、帽子は眼下の川面に裏返しに着水し、そのままドンブラコと一寸法師の舟のように流されていった。
あの舟にもしかしたら、私のこの奇妙な違和感の原因が擬人化して乗り込み、永遠に私の元を去っていったのかもしれない。
やがて大海に流れ着いて藻屑となって消えていく、その「一寸法師」にはとくに未練はないが、帽子はまだまだ使える物だったので流されてしまったことが大変惜しかった。
たしかに安物ではあるのだが、失くしたから新しいものを買えばいいと思えるほどこちらは裕福ではない。たとえ下水の臭いが染みついていたとしても、べつに気にするつもりはないのだが。

2019/05/25

私の住む町にはいくつかの図書館があり、無料で貸し出される本を目当てに多くの貧しいながら向学心にあふれる人々が押し寄せ、いずれもなかなかの盛況だ。
今日はわが家から最も近い図書館へ行こうと思い立ち、昼食後玄関のドアを開けると、まるで自分の姿を見るような「貧しいながら向学心にあふれる人」らしき男性が目の前を歩いていった。
だがその人の進む方向には、私が行く予定の図書館はないのだ。
「わざわざ遠方の図書館をめざして歩いているんだろうか? だとすれば勉学に打ち込むあまりつい運動不足になるという、インテリに特有の問題を解消する狙いなのかもしれない」
そうピンときた私は、その男性のうしろをまるで尾行する刑事のように歩いていった。
だが男性は遠方の図書館へと続く道ではなく、まるで見当違いの方向へどんどん進んでいくので私はだんだん不安になってきた。
「とはいえ、すべての図書館の場所を私が把握していると考えるのは思い上がりだろう。徒歩圏内にまだ盲点のように未知の図書館が隠れていて、背筋を伸ばした本たちが棚にずらりと並んで私に読まれるのを待ち焦がれているのかもしれない」
そんな考えが頭に浮かんだため、私の不安はたちまち解消され足取りも軽く男性のうしろを歩き続けた。
まだ一度も訪れたことのない、窓から柔らかい陽の差し込む小さな図書館。住宅街の静けさになじんだその建物を早く目にしたいという気持ちが高まるあまり、私は前を歩く男性との距離をいつのまにか詰め過ぎていたようだ。
急に立ち止まったその人に背中に、私は勢いよく顔面から激突してしまった。
「あっ、すみません!」
咄嗟に謝りながら顔を上げた私は、振り返ったその人と目が合った。
だがそれは私を図書館へと導くべき「貧しいながら向学心にあふれる人」などではなかった。
いつの間に入れ替わったのだろうか? あきらかに毎日を怠惰に過ごしていることが丸わかりな、無気力そうな無精ひげの顔が怪訝そうにこちらを見ていたのだ。
私はその場でくるっと回れ右をすると、来た道を早送りのビデオのような速度で引き返した。
男はきっとこれから野原にでも行って、バッタなどを捕まえて一日を過ごすのだろう。
そんな時間があれば、本がいったい何冊読めるかわからないのである。

2019/05/24

近所のビルに屋上があることを知った私は、矢も楯もたまらずそのビルの階段を駆け上がっていった。
「こんなビルの存在をこれまでまともに意識したことは一度もなかった。私が用のあるテナントなど見当たらないことは一目瞭然だし、どうやらエレベーターがないことも入口をちらっと覗いたときに予想していたのだ。わざわざ階段を足でのぼって、『この建物に私がこれから通いたくなるような雰囲気のいい店や、つい治療を頼みたくなるような評判の歯医者はあるかな?』などと各階を見て回るほど、私は暇ではないのだ。そんな好奇心溢れる人間を歓迎したいというのなら、せめてエレベーターを設置するのは当然のことだ。だがこれまで無視し続けていたこのビルには、どうやら屋上があるらしい。ついさっき道路を歩いていたら、ビルの頂上に立つ人がこちらに向かって手を振ってきた。それを見て私はこのビルへの興味を急速に掻きたてられたというわけだ。私は屋上に大変興味があり、どんな建物の屋上も一度は足を踏み入れたいのだが、最近はすっかり屋上から遠ざかっていた。どこか虚ろな心で足もとばかりを見つめ、自分の足に自分で引っかかって転んだり、意味もなく草をむしって空中に投げたりしていた。そんな迷走気味だった日常から、さきほど屋上で手を振っていた人が連れ出してくれたのかもしれない。さあ、そろそろ屋上のドアの前だ」
独り言が終わると同時に私はそのドアを開け、屋上へと飛び出していった。
つまり階段の長さと独り言の長さという、本来なら較べられるはずもない異質な二つのものの長さが奇跡的に一致したのである。
私は何か運命的なものを感じ、もしも自分に子供が生まれたらこのビルと同じ名前にしよう、とそのとき決意したのだった。
だがその名前をここに書き記すわけにはいかない。
子供と親とはあくまで別人格なのであり、SNSなどで子供の個人情報をまるで自分の日記帳のように気軽に書き留める親を見かけるが、将来我が子から裁判を起こされてもしかたないし、その裁判に負ける可能性が高いことを知るべきなのである。

2019/05/23

近所の老舗の洋食屋の前を通りかかったら、どうやら店を閉めてしまったらしくガラス越しに荒れ果てた店内の様子が見えていた。
「だが昨日や今日閉店したのなら、こんなに床に埃が積もったり、天井に蜘蛛の巣が張ることもないはずだ。まさかこんな不衛生な店内で料理を出していたとは思えないし……」
私が腕組みをして考えごとにふける姿が、暗い店のガラスに映し出された。
問題に真摯に向き合い、自分の知力を惜しげもなく投入していることが丸わかりのそのポーズに自分でも驚き、少々恥ずかしく思ったほどだった。
これではまるで「私はインテリでござい」と町をゆく見ず知らずの人々に向けて宣言しているも同然ではないか?
そういうことを臆面もなく積極的にアピールすることで「自分はこういう人間なんです」と主張し合い、お互いに認め合ったうえで先に進みましょうというのが欧米の流儀だということは、私も教養としてはもちろん心得ている。
だがここはあくまで日本という僻地なのだ。欧米の先進的なやり方をそのまま持ち込んでも余計な反感を買うだけだし、猿のように顔を真っ赤にして怒り狂う未開人たちに腐った寿司などを投げつけられたのではたまらない。
この国では周囲に自分を完全に溶け込ませ、壁の模様のように無害なことをアピールして初めて社会の一員としてスタート地点に立つことができる。諸外国の常識から見ればびっくり仰天の風習だが、文明国との交流を長年続けてもいっこうに改まる気配がないようだ。
こういう話は場合によっては差別的に響くかもしれないので慎重にならねばならないが、かれらの住む島々の空気や水、または独特な食生活などに何か有害な物質が紛れ込んでおり、人々の文化的な成長を妨げているのでは? とつい心配になってしまうほどだった。
思えば目の前のつぶれた洋食屋は、エビフライやハンバーグなどの西洋文明に由来する料理を供する店として、回転寿司やうどん屋が幅を利かせるこの界隈で健闘していたのだ。
そう思うと荒れ果てた店内の様子が、未開人に襲撃され破壊され尽くした教会のように見えてくる。

2019/05/22

空のどこかで雷鳴がゴロゴロと鳴り始めると、誰もがぼんやりとした不安に包まれて心配そうに周囲を見回しはじめてしまう。
さらに稲光まで閃きだせば、もはや全員が今にも泣きそうな顔を隠せない。ゴリラのように体を鍛え上げた体育会人間も、コンピューターのように頭脳明晰な理科系人間も同じように目を潤ませ、ブルブル震えているではないか。
まさか成人式を終えた後の人間が「雷様にへそを取られる」といった与太話を信じているとは思えない。しかしながら、子供のまだ柔らかい新鮮な豆腐のような精神に刻み込まれた「雷様にへそを取られる」という恐怖は、大人の理性でいくら上書きしようとしても無駄なのだ。
どれだけ隆々とした筋肉も豊富な科学的知識も、すでに手遅れである。周囲の大人が犬猫でも躾ける感覚で気軽に植え付けた雷に関する迷信が、その子供の一生を支配する。雷鳴を耳にするたび蘇るトラウマが、人生にあり得たはずの自由を私たちの精神から奪い取ってしまうのだ。
子供たちを刺激的な暴力映像やポルノなどから守らなければならない理由が、ここにはある。柔らかい豆腐の表面に消えない傷がつかぬよう、盾になって跳ねのけてやるのが大人の義務なのである。
そうした義務が誠実に果たされていたなら、雷がゴロゴロ鳴るたびお臍を隠して右往左往する人々の群れなど目にすることもなかっただろう。
そんな呪われた人生を歩む負の連鎖を、勇気をもってここで断ち切らなければならない。あらゆる子供は、みんなが笑顔になって思わず歌い出すようなほんわかしたエピソードだけを延々と映し出すテレビのある部屋に、厳重に監禁するべきなのだ。
もちろん、18歳になった瞬間に部屋の扉が開け放たれるのは云うまでもないが。

2019/05/21

地元の駅前の広場にしばらく立っていたら、そんな場所に立つのは数年ぶりだということに気がついた。
めったに電車に乗ることがないとはいえ、皆無というわけではないからその駅を利用する機会は多少あった。だが駅前の広場というのは私にとって何の利用価値もないものであり、駅への行き帰りにちらっと視界をかすめる景色という以上の意味は持たない。わざわざそこに佇んで一定の時間を過ごす、という酔狂な真似をしようとはまるで考えてもみなかったのだ。
だが数年前に、たしかに自分がその「酔狂な真似」に及んだことを今日同じことをしてみてようやく思い出したというわけである。
前回のことはすでにおぼろげな記憶でしかないが、おそらく今日と同じ理由で私は足を止めたのだろう。
駅前広場にはもうずいぶん前に水が止まってしまったと思しき噴水池があるが、そのからっぽの池の中に一人の老齢の男性が座り込んでいた。
その姿勢があまりにも入浴中の人間らしく見えたので「頭のぼけたお年寄りが、銭湯と間違えて入り込んでいるのかな?」という考えが頭をかすめた。
そう思ってよく見れば、老人は全裸でもあった。これはますます私の仮説の正しさが証明されつつあるようだ。私はちょっとした探偵気分で、さらに推理のヒントになるものがないかと目を凝らした。
だが、べつによその風呂場を覗いているわけではないとはいえ、見知らぬ老人の裸を凝視するのは気まずいものだ。そう気づいた私は思わず目をそらす。
すると視界に駅の改札口が飛び込んできた。ちょうど列車が到着したところなのだろうか? 大勢の人間がその狭い出口に押し寄せ、かなりの渋滞を引き起こしている。
その分、いったん自動改札を無事抜けられた人々は解放感にあふれ、勢い良く左右に広がって飛び出していくのが見て取れた。
私がハッとして池の方へ再度目を向けると、全裸の老人は立ち上がって目を閉じ、わずかに頭髪の残る頭を両手でかき混ぜるようなしぐさを見せている。
頭のぼけた老人にとって、改札口はシャワーのノズルなのだ。

2019/05/20

隣の家の庭にある木が花をつけ始めた。白い花だが、ありふれていて私には面白みに欠けているように思われた。
まるで大量生産の工業製品のように見飽きた色と形。すでに他の家の庭で咲いている花に右へ倣えをして、うわべだけ綺麗に整えたようなつまらない花だ。たとえ稚拙なつくりでも、自分ならではの個性にあふれた花を咲かせることの方が何十倍も素晴らしいのだということを、あの木はまるで理解していないようだ。
それは何も隣家の庭の木に限ったことではなく、この世界全般に対して思わず苦言を呈したくなる傾向でもある。
たとえば公道を走る大量の自動車からは、四つのタイヤを回転させて前に進んでいれば誰からも咎められることはないだろう、といういわば「世の中に対するみくびり」がどうしても透けて見えてしまう。
自分だけの個性にあふれるタイヤの数、他の誰にも真似できない不規則な走り方などで個性を発揮した場合、他の車の列から浮いてしまうし、迷惑がられて一斉にクラクションを鳴らされるなどの圧力を感じることになるのは確かだろう。
そうした軋轢をあらかじめ避けてみんなに合わせることを美徳とするような生き方は、この国の教育が長年に渡って固定させてきた、統治者に都合のいい価値観が蔓延した結果なのだ。
つまり教育制度の根本的改革に手を付けないことには、この無個性で味気ない世の中を変えることは永遠に不可能なのだと云える。
しかしながら、大臣にでもならないかぎりそのような大がかりな仕事に取り組めるはずもなく、大臣という権力者の地位についた途端「やっぱり周囲に合わせない迷惑な車が混じってると、事故とか起こされていろいろと面倒くさいな」という統治者的な判断が前面に出てきてしまうのは目に見えている。
だから世の中を変えるために自分が大臣になろうと血のにじむような努力をするのは、まったく無駄なことだと云わざるを得ない。
そんなことをしても、「かつて世の中を変えることを夢見ていた、今では単なる現状維持を望むだけの権力老人」がこの社会にまた一人増えるだけなのである。

2019/05/19

現在住んでいる部屋に引っ越してきてすでに二十年が経過しているが、考えてみればこれは相当な歳月ということになる。
越してきたばかりの頃、近所の路上を奇声を上げて駆け回っていた子供が、今では私のバイト先の上司であってもなんら不思議ではないのだ。
このことから得られる教訓とは、拾った昆虫の死骸などを手に持って無意味な叫び声を上げ、異様に盛り上がっている子供を見ても「そこのガキうるさいぞ!」などと怒鳴りつけたり、棒で叩いて黙らせるなどの行為を感情に任せてするべきではないということだ。
その場では静かになって一時の快適さを得られるかもしれないが、やがて成長した子供が上司となって再会したとき気まずい思いをし、最悪の場合バイトをクビになる恐れだってあるのだ。
もしも怒鳴りつけたい気持ちをぐっと我慢して、
「キミ、なかなかおもしろい虫を持ってるね、おじさんにも見せてくれないかい?」
などと友好的に話しかけ、昆虫についての知識を披露などして尊敬の念を向けられていたならどうだろう。
やがてバイト先の上司になったその子は当時のことを覚えていて、他のバイトより楽な仕事を回してくれたり、寝坊して遅刻した分の減給を見逃してくれるかもしれない。
クビになるのと較べたら、その結果はまさに雲泥の差というべきものだ。
子供の顔というのはあっという間に変化して別人になるが、むこうから見ればこちらは同じ顔のままだんだん老けていくに過ぎないなのだ。いつどこで思わぬ再会があるかわからないという点を肝に銘じて、中年の皆さんも油断することなく人生をエンジョイしてみてはいかがだろうか?

2019/05/18

毎日の食生活への、繊細な気遣い。それが求められるのはべつに一家の主婦や、飲食店の経営者ばかりではない。一人一人が自分の体をつくっている食べ物をじっと見つめ、
「私の肉や骨になるという大事な仕事を、この食べ物に任せていいんだろうか?」
そうしっかり考え直す時間が必要なのだと考えられる。
いわば食事のたびに我々は自分という企業の人事担当者となり、入社試験を実施しているのである。
慎重な選考過程を経ずに毎日同じ物を食べたり、評判の店を巡って外食ばかりする人間は、いわばコネ入社ばかりの会社や、出身大学のブランドで採用を決める会社のようなものだ。
そんな会社に激動する世界を生き抜く真の力が育たないのと同じように、食事としっかり向き合わない人間の健康状態はつねに安普請の家のような不安定さが続いている。
そして心もまた脳という肉体の一部がつくりだすものである以上、結果的に「毎日の食事があなたの心をつくっている」というのもまた事実なのだ。
そんな大事な仕事を任せるべき日々の主食をカップ麺などに頼らざるを得ない、貧困と多忙が重なっている層はいわば「カップ麺でできた心」で生きているカップ麺人間たちと云っていい。
毎日手打ち蕎麦ばかり食べている人間と彼らとでは、事実上まったく別の世界で生きているようなものだ。そのこともまた現状の格差社会をさらに強化し、人々を今いる社会的な地位へと固定させていく原因となっていると思われる。
だから毎日のカップ麺を一週間に一度の手打ち蕎麦に変えるなどして、貧困層を心だけでも富裕層に近づけていくことが必要になってくる。そのことで初めて同じリングに上がる条件が整うのであり、格差社会を崩壊へと追い込む革命への第一歩が印されるのだ。
一週間に一度の食事では物足りない、という不満の声は出るかもしれない。その点はたしかにどうにかしたいと考えているが、無農薬・有機栽培の良質な蕎麦粉にこだわりたい以上、なかなか難しいというのが本音だ。

2019/05/17

会社組織などに属して、将来への不安を打ち消すようなさまざまな保険をかけている気分にならないと、毎日の食事もろくに喉を通らなくなる。そんな精神状態の人が大変多いことが、労働者を舐めきった傲慢な企業経営のありかたを無言で後押ししているような気がしてならなかった。
どんなに調子よく見える会社も明日には倒産している可能性があり、そこまではいかずとも業績不振により、給料のかわりに袋入りのモヤシやさほど旨くもないスナック菓子等が配られるようになるかもしれない。そう考えると、たとえ正社員の地位であろうとそこにしがみつくことが何を保障するわけでもないことはあきらかなのだ。
それでも、藁をもつかむ思いで劣悪な環境の職場にすがりついてしまうのが人情というものだ。それはけっして冷徹な計算によるのではなく、もっと切実でやみくもな判断なのだと考えられる。人は追い詰められているときにこそ最悪な判断をしてしまいがちであり、ずっと後になってそれを悔やむ日が来たとしても、もはや取り返しのつかない場所での出来事なのである。
町を歩けば、実に様々な会社の名前が看板になって掲げられている。これだけの数の会社があるなら、中には労働者を宝物のように大事に扱う理想的な職場もそれなりの数あっていいはずだ。
ところが聞こえてくるのはすべて職場に関する愚痴や怨嗟の声ばかりであり、そのことからもまた現在我々が追い詰められている場所の深刻さが窺い知れるだろう。
無数の看板に書かれた社名はすべて肥え太ることのみに専念する資本の豚の名前であり、労働者はその豚にせっせと餌を運ぶ奴隷でしかない世界が完全に実現されているのである。
この絶望的な事態の打開には、豚インフルエンザウィルスのごときものの感染による、大々的なパニックの到来が望まれるのかもしれない。
だが豚インフルエンザによる豚の死亡率は極めて低いものであり、過大な期待は禁物なのだ。

2019/05/16

わが家の周辺は人口密度のわりには自然に恵まれており、生活するにはなかなか快適な環境だと云えるだろう。
そのせいか、いかにも振り込め詐欺グループなどに属していそうな反社会的な雰囲気を漂わせる人間は見当たらず、散歩していてもすれ違う人たちに対し自然に「こんにちは!」という元気な挨拶の言葉が漏れてしまうようなところがあった。
相手からは同じように挨拶の言葉が返ってくることもあれば、そうでないこともある。もちろん、心の中では誰もが元気な挨拶を口にしているはずだが、中にはシャイな人や、たまたま考え事をしていてこちらの挨拶を聞き逃してしまう人もいるだろう。だから返事がもらえなくとも気に病む必要はなく、自分の挨拶がその人の心に隅にぽっと小さな花を咲かせたことをひそかに喜んでおけばいいのだ。
たとえ今は咲いていなくとも、無意識のうちに聞き取った明るい挨拶の声は心に種を埋め、いずれそこから芽が出て成長した草木が花をつけることになるのである。
私は今までにすれ違いざまに挨拶した人の顔はすべて覚えている。だからその人と道でばったり再会するたびに「あのときの種は芽を出したかな?」「そろそろ花を咲かせている頃かな?」ということが気になって、ついじろじろと見つめてしまう。
だが無言でそんな態度をとるのは失礼だと反省し、最近ではきちんと言葉にして質問するという方法に切り替えている。
「こんにちは! 以前もこんな風に道でご挨拶させていただいた者ですが、その後いかがですか? どこか心を明るくするような可愛らしい花が体内で開いたような気持ちにはなっていませんか?」
そう勇気を出して訊ねれば、相手の人も当初の不審な気持ちが消えて笑顔に変わり、誠実に答えを返してくれるものだ。
「はい、なんとなく思い出しましたよ。そのときは挨拶が返せなくてすみませんでした。知らない人に挨拶されるという経験があまりなくて、びっくりして咄嗟に言葉が出てこなかったんです。でも、あれ以来自分の中に『知り合いでもなんでもない人にでも、路上で積極的に挨拶をしてかまわないんだ』という新しいルールが生まれ、今では自分もそうするように心がけているんです」
そんな言葉が初夏のそよ風に乗って耳に入ってくるとき、私は花壇の前にしゃがみ込んで思いきり香りを吸い込むような気持ちになるのだ。

2019/05/15

この世から凶悪な犯罪はまったく減る様子を見せない。それぞれの個人が自分や家族などが身勝手な犯罪に巻き込まれぬよう、できるだけ治安のいい場所を選んで活動範囲を制限するなど、各自工夫するしか手立てはないようだ。
いかにも殺人などに手を染めそうな冷酷な表情の人物や、中でどんなことが起きているか計り知れないような不吉な森などにはできるだけ近づかないことで、少しでも自分が犠牲者になる可能性を低下させる、というのが我々にできることのすべてだろう。
もちろん、本来ならばあらゆる犯罪は根絶させて誰もが何ら警戒心を抱くことなく歩き回れる社会が理想だが、現実はそれには程遠い。警戒すべき対象は犯罪者ばかりではなく、最近では我が家の近所では凄惨な姿の悪霊も頻繁に目撃されているようだ。この場合、目撃者が警察に通報したところでなんら解決には繋がらない。たとえ市民が悪霊に呪い殺される現場に立ち会ったとしても、警察は手をこまねいて見ているだけだろう。法律はあくまで生きている人間にのみ適用されるもので、どれだけはっきり目に見えたとしても警察官は悪霊の存在を無視するほかないのだ。
もちろん法律の適用外である以上、悪霊たちの行為は犯罪とは云えない。一種の自然現象のようなものだ。今問題にしているのは増え続ける犯罪者たちをどうするかなのだが、いっそのこと悪霊の呪いによって犯罪者たちが次々と惨殺されたならすべては一挙に解決の方向へ進むことになるはずである。
ならば犯罪が起きてしまってからではなく、発生前に犯罪予備軍を悪霊が呪い殺すのが理想的な事態なのではないか。
ただし、誰を犯罪予備軍とみなすかは難しい問題で、意見が割れることが予想される。慎重に議論を重ねていく必要があるだろう。

2019/05/14

同じ町の中でも、地区によって治安のよさには雲泥の差があるものだ。時には通り一本ずれただけで、平和な住宅街が犯罪と薬物汚染にまみれた危険地帯に変貌することもあるらしい。
私の住むこの町は、基本的にはありふれたベッドタウンであり、結婚して子供を育てているようなもっとも犯罪からほど遠い善良な人々が生活する明るい雰囲気の土地である。
だが目を凝らしてよく見れば、地域内に単身者用のアパートがいくつか紛れ込んでおり、そうした建物に住んでいるらしい中年男性の中には、平日の昼間に近隣をうろついている不審な人物もいるようだ。
おのずとアパートの周囲の治安は悪化し、今にも凶悪な犯罪が発生しそうな雰囲気に怯えて一般の人々の表情は曇りがちだ。あんな犯罪の温床になりそうなアパートはすぐにでも取り壊し、跡地に家族向けの住宅や児童公園などをつくることで治安の回復を図りたい、というのが人々の本音である。
だが昨今は犯罪者予備軍というべき無職男性の排除を露骨に打ち出せば、差別だという非難を受けかねないご時勢だ。とはいえ何かが起きてからでは遅いので、大人たちが積極的に近隣をパトロールすることでどうにか犯罪を未然に防いでいるのが現状なのだ。
私も未来のある子供たちの安全のために、自主的に防犯の標語などを書き込んだタスキを着用してパトロールに参加している。
標語を考えるのはとても楽しく充実した時間であり、それだけで一日が過ぎてしまうことも頻繁にあった。
この一か月ほどはほとんど標語づくりに打ち込んでいたため、日替わりで違う標語の書かれたタスキを掛けて毎日10時間以上近所をパトロールすることができた。
おかげで私は地元の子供たちの人気者となり、遠くから指さされることもしょっちゅうだった。しかしながら、好奇心あふれる顔で近づいてこようとする子供はなぜか保護者らしい大人によって必死に引き止められていた。
私があまりに熱心にパトロールを続けているため、邪魔をしてはいけないという配慮なのだろうか?

2019/05/13

ピクニックや花見など、屋外で飲食する機会の多い人にとって紙コップの使用はおなじみのものだ。軽いうえに使用後は公園などに備え付けのゴミ箱に捨てることで、帰りの荷物を減らすことができることが好まれるのだろう。
だがそのように大変便利な紙コップの利用に消極的だったり、嫌悪感さえ覚える人たちがいるという話を耳にした。どうやらかれらは紙コップに飲み物が注がれている状態を見ると「検尿」を連想してしまうようなのだ。
云われてみれば確かに、ビールや麦茶、リンゴジュースなどはその色が尿に似ていることもあり、検尿コップへの連想を誘うのも無理はないとも思える。
だがオレンジジュースや無色透明なサイダー、酎ハイ等ならばそんな不快な連想が働くこともなく、紙コップの便利さを満喫できるのではないだろうか。ごく無責任にそんな反論をしてしまったのだが、どうやら話はそう簡単なものではないらしい。
当人のコンディションや数時間前に摂取した飲食物などにより、尿の色にはさまざまなバリエーションが存在する。だから一見尿らしくない色の液体が紙コップに満たされている場合でも、何かの薬剤の影響や血尿などで変色していることが想定され、かえって検尿コップとしてのリアリティが増してしまうという話なのだ。
こうしたことは紙コップの便利さに目を奪われているとつい見落としてしまう点である。我々の多くは想像力の欠如によって知らぬ間に身近な他者に苦痛を強いていることがあると自覚する必要があるだろう。
苦痛を感じる側は、場の空気を壊してはいけないとそれを隠して一方的に耐え忍ぶ傾向があり、いわばその場における多数派の楽しみの犠牲になっているのである。
とはいえ、自然の中で紙コップに注いで飲むビールの味が格別なものなのも確かだ……。
せめてその味を楽しむ際には、周囲への配慮を怠ることなく事前にひと言、
「あなたは紙コップに満たした液体を見ると検尿を連想してしまう方ですか?」
そう目の前の人に声をかけてからビールなどを注ぐようにしたいものである。
あなたにとっては思わず喉が鳴るような美味そうなビールが、その人にとっては採取したてで泡の立っている、検査を待つ小便にすぎないかもしれないのだから。

2019/05/12

人がこの世に生まれてきたことに、なんらかの立派な理由があるのだろうか? それとも地震で箪笥の上の人形が落下するように、とくに意味のない出来事なのか。それをいくら考えても答えを手に入れることができないのは、数十年間に渡って考えつづけた私がいまだ結論を出せずにいることから明らかだろう。
だが、同様の問いに頭を占められている若者たちに対し、
「そんなこといくら考えてもわからないから時間の無駄だし、夏は海水浴やキャンプ、冬はスキーなどに行って時間を有意義に使ったほうがいいですよ」
などと偉そうにアドバイスしようなどという気は毛頭ない。
私が結論を出せないのは私自身の限界であり、優秀な若者ならば小一時間ほども熟考すれば「人がこの世に生まれてきた意味」は解明され、次のタスクに進むことができるかもしれないからだ。
むしろそのことに期待したいし、「素晴らしい意味があった」という結論でも、「まったく意味などなかった」という結論でも構わない。
どちらでもしっかり受け止めたうえで先に進むのがこの社会にとって必要なことなのだ。
あるいはいずれでもなく、「人が生まれてくることにはネガティブな意味しか存在しない」という結論が出されたとしても、それはそれで冷静に受け止めたいものだと思う。
絶望を急ぐのではなく、生まれてきたことにいっさいの価値がない、むしろ生まれるべきではなかった人々のつくりだした世界をゆっくりと最小限の被害にとどめながら終わらせるためにこそ、人類の叡智をつぎ込む必要があるのではないか。
そのような態度を決めるべく覚悟はできているつもりなので、若く知性にあふれた人々からの「人がこの世に生まれてきた意味」についての意見にこれからも真摯に耳を傾けていきたい。
ぜひ遠慮することなく、街角などでも気軽に語りかけてほしいものである。

2019/05/11

我々が一生のうちに読むことのできる文字の数など、夜空を見上げた一瞬に視界に入る星の数よりも少ないのではないだろうか?
そう考えてみると、人はみなせいぜい書物という宇宙の入口に立ったところで人生が時間切れになるのだとわかり、虚しさと眩暈の混じったような複雑な精神状態に陥ることを避けることができない。
もっとも、これは都市部を除いた自然に恵まれた土地に限定しての話だ。
都会の人間にとって夜空の星は、ちょっとした読書家なら一日で読み終えてしまう文字数と同程度かもしれない。
もちろんこれは、人口過密な都市部では夜空が明るすぎて視認できる星の数が少ない、という意味で述べているのであって「田舎者は都会人と較べると読書量が圧倒的に少ない」などという根拠のない差別的な決めつけを行っているわけではまったくないのだ。
とはいえ、こちらの意図とは別にそのように読み取れる表現になっていたとしたら、その点は配慮が足りなかったことを反省して率直にお詫びしたいと思うし、無意識にとはいえこの世の差別的な構造を強化することに加担してしまったのは、私の勉強不足並びに「差別というのは無教養な馬鹿が行うもので、インテリである自分とは無関係な問題だ」という慢心があったことも認めなければならない。
「田舎者はろくに本を読まない」などという地方在住者への偏見が問題外なのは云うまでもないとして、都市と地方では情報や教育の充実度にあきらかな格差があることはそれはそれとして受け止めたうえで、考えていかなければならない問題だ。
それは「ある差別構造が、またべつの差別構造を生み出す」という悪循環の実例でもあるだろう。この鎖を断ち切るために、都市に住む富裕層からの寄付などを募って地方に図書館を積極的に建設し、また公民館などを利用して定期的に読書会を開くことで、少しずつ活字に親しむ機会を増やす努力が必要なのではないだろうか。
そうした地道な活動の積み重ねの果てに、たくさんの読書好きな老若男女が豊かな自然の中でそれぞれお気に入りの一冊を手に笑顔で手を振る光景が目に浮かぶようで、私は胸が熱くなるのを感じた。

2019/05/10

何もすることがなかったので壁を見ていたら、それは壁というよりも窓なのでは? という気がしてならなかった。
窓にしては壁によく似ているが、窓枠らしきものも存在しており、ためしに手で触れると開けてみることも可能だったのだ。
だが相変わらずそこには壁らしきものも見え続けている。この不可解な事態をどうとらえたらよいのだろう?
こんなときわたしの頭の中には「超常現象……?」という言葉が浮かんでいる。理解不能な出来事とめぐりあうたびにそんな考えに逃げ込むのは、いかにも文系人間らしい幼稚さと云わねばなるまい。理系人間であればたちまちなんらかの科学的な説明をこころみ、それはあくまで仮説にとどまるのかもしれないが、いずれは実験によってその正しさが証明されることになるのである。
「まったく文系の勉強などしたところで、まるで世の中の役に立たないことは明白だな。大学は理系の学部のみを残して文系は全廃し、元・文系学生たちは余った時間で体を鍛えさせて災害時の救援活動などに利用するのがいいだろう」
そんな意見を誰にというわけでもなく披露していると、ふと理系の知人の顔が頭に浮かんだ。
そこでさっそく知人に電話して今私の目の前で起きている奇妙な現象について語ってみたのだ。
すると知人はきわめて冷静な口調でこう述べた。
「それは単に、自分のいる部屋の窓から隣家の外壁が見えているだけじゃないですか?」
驚きのあまり私は口がきけなくなった。確認したところ彼の云うとおりだったからだ。
どうしてわかったのですかと詰問する私に対しその人は、
「理系の勉強をした人間なら誰でもわかることですよ。べつに私が特別なわけでもなんでもない」
そう謙遜してみせたが、 なおも私が感心して称賛し続けると、まんざらでもない様子だったのはたしかだ。

2019/05/09

いつもの憂鬱な気分がなんの挨拶もなしに私のもとを訪れ、なけなしの幸福なひとときを踏みにじろうとしている。
ちょっとしたインスタントな旅情を味わうために、テレビの旅番組を見ているとしよう。そのとき私はそれ以上のもの、たとえば未知の土地に関する深い理解に根差した紹介のたぐいなどテレビに求めてはいない。おそらく自分では一生訪ねることのない土地を、まるで思い入れのない、なんとなく顔を見たことのある程度のタレントがいかにも台本がないといった自然なふるまいで冷やかしている光景。そんな光景から受けとめられる、非常にお手軽な旅情が私の求めているすべてなのだ。
ところが憂鬱な気分は私に代わって、テレビ画面の中の罪なきタレントたちに罵声を浴びせようとする。
まったく八つ当たりもいいところだが、旅費を負担しなくていいどころか、ギャラまで受け取って旅行している人間を見せつけられることに精神的苦痛を覚え、そのことへの損害賠償を請求する勢いでテレビへ悪態をついてしまうのだ。
すべては憂鬱こそに原因がある。食中毒にかかった人が嘔吐と下痢に見舞われるように、憂鬱にとらわれた人間は自分より恵まれて見える他人を毒づかずにいられない。
だがもしもテレビの中でどこか投げやりに旅を続けるタレントがふと画面から飛び出してきて、
「旅先のお土産の饅頭です、よかったら食べて下さい」
そう云って地名の印刷された紙袋を差し出してきた場合、憂鬱はたちまち吹き飛んでそのタレントに対する好感度もうなぎ上りになるのは確実だろう。
とはいえ技術的な限界により、いまだテレビ画面からタレントが飛び出してきたことはないのだ。
もちろん一人のタレントが全視聴者のお茶の間に飛び出すには、体がいくつあっても足りない。だから本当に飛び出すのではなく、そういう幻覚を見るのだと考えたほうが適当だろう。
だとすれば問題は技術的なものというより、法的な議論も含めた倫理的なものだと云えるかもしれない。
我々は果たしてテレビから何らかの薬品が霧状に噴射され、その作用によってタレントがお茶の間に土足で踏み込んでくる時代の到来を、素直に歓迎できるのだろうか?

2019/05/08

ベランダにTシャツを干している家があったので、どんな柄のシャツなんだろう? という好奇心が湧いた私は立ち止まり、目を凝らしてみた。
だが微妙な距離と角度があるため、それがピンクの地に青いインクで何かがプリントされていることまでしかわからなかった。
ここから見えている部分だけをヒントに想像をめぐらせてみると、鋭い牙を持つ獰猛な獣が二頭、今にも互いに飛びかからんばかりの姿勢で睨み合っているイラストのように思えた。
ただ、そんな柄のTシャツに私はとくに魅力を感じることはなく、もし誰かにプレゼントされたとすればその場では愛想よくお礼を述べて「こんなセンスのいいシャツが欲しかったんですよ」などと喜んでいるふりをするのにやぶさかではないが、 実際には一度も着用しないことは目に見えている。
そんなTシャツを愛好する人のことを馬鹿にしたり、笑いものにしたりするつもりはまったくないし、そんな心無い行動をする人間を見かけたら注意する自信もあった。本当に自分のファッションセンスに自信のある者は、他人のセンスにとやかく口を出すことはしないはずだ。他者のセンスのなさをあげつらうことでようやく「自分はセンスのない田舎者で、陰でみんなから物笑いの種にされてるのでは?」という不安から逃れるという、綱渡りのような行動に出ている人間は少なくないだろう。
だから他人から笑われるようなデザインのTシャツでも、堂々と人目につく場所に干すことのできる人たちのほうが人間としてずっと上等だし、そのうえで時には自分のファッションセンスを省みて、磨き上げる努力を怠らないのが理想なのかもしれない。
そんなことが実行できているとは自分でも思えないが、もしあのベランダにTシャツを干している人物がそんな心掛けを持つのだとしたら、これも何かの縁だと思って応援したい気持ちでいっぱいであり、あのようなデザインを好む自分のことを決して卑下することなく、一般的な意味での「センスの良さ」にも対応できるようになることで自分の幅を広げてみてはどうか? というささやかな提案をしてみようかと空想しているだけなのだ。
それにはまず、あのTシャツの柄が本当に「鋭い牙を持つ獰猛な獣が二頭、今にも互いに飛びかからんばかりの姿勢で睨み合っているイラスト」なのかどうかを確認してみなければならない。
付近に高い木や建物などがないため、このままでは泥棒のようにベランダに侵入する以外に方法がないという袋小路に陥っていた。
ドローンを飛ばして、空中から撮影するというのはどうだろうか?

2019/05/07

知人のMは取るに足らない人物で、どれほどやむを得ない事情がある場合でも彼と話すのは完全な時間の無駄だ。地面に落ちている菓子パンのかけらを運んでいく蟻を観察したほうが、よほど有意義な時間を過ごすことができる。
もちろん将来は昆虫博士になりたいという希望を胸に抱く子供の話をしているのではない。そんな子供の場合、昆虫の生態を観察することに意義があるのは当然だからだ。私が云いたいのは、とくに昆虫に興味がないばかりか、蟻の観察がなんらかのビジネスチャンスに結びつくあてなどまったくない、一時のきまぐれな興味としての蟻の観察のことなのだ。
私にもそんなところがあると認めざるを得ないが、蟻という昆虫について「どう思いますか?」と他者から質問された場合、単に黒くて小さな生物だという以上のことが思いつかず、そのまま「黒くて小さいですよね……」などと口に出してしまいかねない人間が、一定の数存在している。
そんな人間にとって、地面の蟻を眺めることは橋の上から川の流れをぼんやり眺めるのにも似た行為である。そんな気の抜けたような時間の過ごし方でさえ、私の知人であるMという男(マゾヒストという意味ではない)と会話をすることと較べたら、まるで死を目前に控えた人にとっての日常がにわかに黄金の輝きを帯びるのにも似た、価値の高まりを感じざるを得ないのだ。
だがMはけっして悪人というわけではないから、むこうが会話をしたがっているのを無下に拒むのも気が引ける。心底くだらない、人間としての魅力に絶望的なまでに欠けた善人というものを、いったいどう扱えばいいのだろう? 他人にまったく気づかれることなく付け外しのできる耳栓というものがあるなら、Mの周囲の人には飛ぶように売れることが予想される。値段は千円くらいまでなら出してもいい、と考えている者が多いというのが、個人的な聞き取り調査を経ての感触である。
ただ、それ以上の値段になるなら耳栓を買うのではなく、今まで通り地面の蟻を眺めてやり過ごすことを選ぶ者が多数派を占めそうだ。そんな人たちの中から、あらたに蟻の魅力に目覚めて蟻博士への道を歩んでいく人が出ないとは、誰にも云えないだろう。

2019/05/06

数年前にどこかの町の喫茶店で拾った腕時計が、今朝突然動き始めた。
あれはいったいどの町だったのだろう? 私がここ数年間に足をのばした町などいくらも存在しないのだから、時間をかけて記憶を浚えば特定できるような気がするが、あまり気が進まない。
なにしろ店内で見つけた腕時計を店員なり警察なりに届けることなく持ち帰ったのは、あきらかに犯罪に該当する行為なのだ。いかにも安っぽいうえに、電池切れなのかずっと同じ時刻を差したままの腕時計だったから、忘れ物ではなく捨てていったと考えるのが自然だった。少なくとも当時はそう感じたのだが、そんな個人の気まぐれな判断で法律に明記された罪が消滅するはずもない。
しかも電池交換などを試みたわけでもないのに、いきなりその時計が今朝になって動きだしたのだ。立派に役目を果たす腕時計だということが突然証明されたのだから、このまま手元に置くのはもはや自分への言い訳も立たない状態だった。
しかしどうして数年間同じ時刻を示し続けた時計が、いきなり動きを再開させたのだろう? 針が差していた時刻はたしか六時五分前だったはずだ。それが午前なのか午後なのか、文字盤をいくら凝視してもわからなかったが、とにかくいつ見ても同じ時刻だった。そのため時計のまわりだけ世界が凍り付いていて、手首に装着したとたんに自分もその凍った時間の中に閉じ込められてしまう……そんな恐怖を感じて私は一度もその腕時計をはめたことがなかった。
もし凍りついた世界に閉じ込められたら、もう自力で腕時計を外すことは不可能だ。そんな危ない橋を渡るべきではないと、無意識のうちに私は判断していたのかもしれない。
だが今では、その時計は自由に歩を進めて気ままに時間の経過を示している。私の部屋の時計とはまるでずれた時刻を示しているが、この地球のどこかには今この腕時計が正確な時刻を示しているような土地が存在するのではないだろうか。
だとすれば時計が眠り続けていた数年間とは、我が国からその未知の土地へと、この腕時計の「魂」とでも呼ぶべきものが旅をする貴重な歳月だったのかもしれない。
気がつくと私は近所の交番にいて、以上のような内容の話を熱心に語り続けていた。
だが目の前で私の話に耳を傾けているはずの警官の姿はなく、からっぽの交番の机の上には電話機がぽつんと置いてあるだけだった。
「話の途中で何か事件が発生して、お巡りさんは急遽出動してしまったのかもしれないな。私はつい喋ることに夢中になっていて気がつかなかったが……」
 腕時計を机の上に残して私は交番を後にした。持ち主が現れることを心から願っていたのは云うまでもない話だ。

2019/05/05

頭上にくす玉があるので、それがいつ割れて紙吹雪や風船などが自分に降りそそぐのかと私は気が気ではなかった。
むろん、それが私のために用意されたくす玉とはかぎらない。他人のためのくす玉の下に私が偶然立ってしまっただけかもしれないのだ。また、ある一定の条件を満たせば私の頭上で割れることになるくす玉だという可能性もあるだろう。たとえば特定のタイミングでその下に立った場合、くす玉は私を祝福の対象とみなすというわけだ。
いずれにせよ、こうして思いを巡らせるあいだもいっこうにくす玉は割れる気配を見せなかった。どうやらこのくす玉は私を紙吹雪を降らせるべき相手とは考えていないらしい。私は肩をすくめて、その金色に輝く球体の眩しさに目を細めた。
思えば、私の人生には祝福を受けるべき要素などほとんど見当たらないと言えるのかもしれない。生まれてきたとき、おそらくは大いなる祝福を受けたことだろう。まったく憶えてはいないが。そしてそれがほとんど最初で最後の祝福の機会であり、後は生誕の輝きの余光というべきものがかろうじて自分の足もとを弱弱しく照らしているに過ぎなかった。
思い描いた理想はそのかけらさえ手に取ることができず、ただ幻滅と失意の積み重ねを自分の年齢のように数え上げて疲弊し続けることが人生を名乗って、私のもとに居座り続けてきただけなのだ。
そんな自覚があるにもかかわらず、ふと見上げたとき視界に入ったくす玉を、自分のために用意されたものであるかにかすかに期待したのだから、まったく笑い話にもなりはしない。
あれは誰か立派な業績や幸福な日常などにより人生を輝かせている人のことをくす玉が「自分と同類だな」とみなして、その輝く表面に亀裂を入れるために用意されているのだ。
果たしてどんな人がカラフルな紙吹雪を浴びて驚きの表情を見せ、物陰から登場した人たちから拍手とともに次々と祝福の言葉を投げかけられるのだろう?
その瞬間がぜひ見てみたいものだ。
恐らくはそう言い訳のように考えるふりをすることで、私はいつまでもくす玉の下に未練がましくとどまり続けたのだった。

2019/05/04

批評は人類の歴史においてその必要性が認められ、独立した文化的な価値を持つ大変素晴らしいジャンルなのだ。けっして作品にもたれかかってかろうじて生きながらえているような他力本願な小賢しさなど感じられるものではないし、作品が示したある種の革命的な動揺への志向を、われわれの日常感覚としての平穏な景色の中に回収するという反動的な役割に甘んじているというわけではけっしてない。
むろんそうした側面がこの資本主義社会において批評に皆無というわけにはいかないはずだが、それはいわば商品であるために偽装された仮面としての表情であり、そんな表層をとらえて「批評の大半はつまらない」などと何の疑いもなく言語化するのは政府が発表するでたらめな数字だらけのデータや、将来への単に聞こえのいい広告コピーのような展望を素直に鵜呑みにするような白痴の所業だと言わねばなるまい。そのような主張をする輩を見かけたら、文章の全体などを読んで文脈を丁寧にとらえてやる必要はなく即座に、たとえ糞リプのそしりを受けようとも鋭く批判の矢を放っておくことが批評という聖なる職務に携わる側の人々の義務だと言えるだろう。
そのような義務が果たせない者にいまや務まらないほどに、批評という職務はしいたげられるとともにその聖性が高まっているのは間違いないのだ。それはけっして批評家の人材不足により文章のろくに読めない粗忽者が批評家の代表であるかのような意識に蝕まれてしまっている、という現状の暗澹たるさまを証明しているわけではない。そんなことはありえないのであり、批評家を自任する意識は重厚な教養に裏打ちされた読解力によって厳重に支えられているのだから、あえてフットワーク軽く糞リプめいた文言を繰り出すことで批評への敷居を低めに設定し、誰もが作品などすべて読まずに気軽に自由に批評してもよいのだというきわめて現代的なあらたな批評の規範への誘惑的な身振りとして、その言動は逐一位置づけられるべきなのである。
それが書かれた背後にある文脈になど一切想像を巡らせないのは当然のこととして、書かれたもののさらにごく一部だけをつまみ読みし、咄嗟に反射的に頭に浮かんだ感情を雄犬が電柱に尿をかけるように短く義務的に投げかける、そんな新時代の批評がSNSを通じて高貴な精神の批評家によって提案されている時代に同時に生きていられるという幸運を、ぜひとも噛みしめるべきなのだと感じているし、何か眩しいものがあふれ出るような箱の蓋が開きかけていることを、祝福するような気持ちで呆然と眺めている。

2019/05/03

毒のある生き物のような危険な雰囲気のただよう、六歳くらいの男の子が公園で一人で遊んでいた。
その表情にはこの世で起こるすべてのことを冷ややかに眺めるような、その年頃の子にふさわしくない悪魔的な微笑が宿っていた。
今はまだ体力的にも知恵の上でも非力な幼児だから、たんに不気味な子供だという話で済んでいるが、これが成長して危険な才能を発揮できる年齢になったら大変なことになる。多くの人間が彼の犠牲になって心身を痛めつけられ、それぞれの天寿を健やかに全うする権利を奪われることは目に見えているのだ。
そう感じた私は、悪い芽は早めに摘んでおくべきだとばかりに、金属バットを片手にその男の子に近づいていった。
「こんにちは、おじさん。世界は今日もミラーボールのようにきらきらと輝いているね。そうは思わないかい?」
子供はとくに無邪気さを装うでもなく、 顔を上げてそうなれなれしく話しかけてきた。
私はそれにこたえることはなく無言でバットを振り上げた。
ポコッ、という妙に軽い音がして子供は地面に横向きに倒れた。
「こんなに世界が輝いていると、自分も他人もその光に呑み込まれて区別がつかなくなってしまう。せいぜい鏡に向かって話しかけているような気分になれるだけだ。そんな状態では建設的な話し合いはまるで覚束ないが、そのかわり抱き合って涙を流しながら互いをひたすら許しあうような、ある種の恍惚の中であらゆることが解決する道があるのかもしれない」
金属バットの一撃によって顔の形が変形した子供は、地面に横たわったまま饒舌に語り続けていた。
声こそどこにでもいる幼児に過ぎないが、話の内容は人をたぶらかすのが得意な詐欺師の口上そのものだった。
だがこれだけ頭部が変形した状態では、せいぜいこの公園を訪れる人々相手にちょっとした寸借詐欺のようなものが働けるにすぎないだろう。
そう考えた私は彼にとどめを刺すことなく、公園を後にした。
どんな悪人にも我々と同じひとつだけの大切な命があり、それを取り上げる権利は神でもないかぎり誰も持ちえないのだ。
私は生命のすばらしさについていつものように思いをはせながら、今日も一人の死人すら目にせず一日を過ごせた幸福を神に感謝して、自宅への曲がりくねった道を歩いていった。

2019/05/02

二年ほど前のゴールデンウィークに、私はどこか見知らぬ街を旅していた。どのような理由でそこにたどり着いたのかははっきりしないのだが、夢や空想でないことは生々しい記憶が証明しており、そのとき購入した土産物のキーホルダーも手元にある。
それは天狗の顔だけのキーホルダーで、地名が書かれていた痕跡があるがすでにかすれて読めなかった。天狗の伝承などが有名な場所におもむき、しばし旅情にひたって魂の休暇を楽しんだのだろう。
そう思ってキーホルダーをいじっていたら、長い鼻がぽっきりと折れてしまった。
鼻が折れてしまった天狗はもはや天狗ではなく、ただの赤ら顔の男に過ぎないことに私はそのとき気づいたのだった。
「どんなに個性的で人々の注目を集めるような人物でも、いったんその最大の特徴が失われると突然どこにでもいるような平凡な存在に転落してしまう。持って生まれた才能にせよ、努力によって磨き上げた個性にせよ実はとても脆いものであり、そうしたものを心の拠り所にするのは大変危険なことではないだろうか? どれだけありふれた凡庸な人間でも誇りを持って生きられる社会の建設が急務だと感じられる。だがただの赤ら顔の男がいったい何を誇りに生きていけばいいのか? そんな誰も興味の持てない人物の顔がキーホルダーになって販売されるような時代が来るとは、どうしても思えないのだ……」
私の思考はそんな袋小路に入り込み、手にしていたキーホルダーがぽとりと床に落ちた。
かつて天狗だった男の目は、どこか悲しげに私をまっすぐに見上げていた。

2019/05/01

私が何を考えているのか、私の顔をどんなにじっと穴が開くほどみつめても他人にはわからないだろう。
これはなんとも奇妙なことだ。これほどはっきりと物を考えていて、自分にとっては疑う余地のないくっきりとした思考の声が、ほんの数十センチ先にいる他人にはまったく伝わらないのだから。この奇妙な事実にくらべたら、テレパシーによって互いの心の声が自由に会話するという荒唐無稽な話のほうがずっと納得がいくものに思えるのだ。
人が何を考えているかが伝わるには、音声なり文字なり、なんらかの手段で出力したものを間接的に参照するしかない。だがそこにはつねに虚偽の申告が混じるため、心の中の真実を知る者はこの宇宙にその人自身しかいない、という途方もない孤独の中で我々は生を全うするしかないのだと云える。
そう考えると町を歩く大量の人間たちがまるで厳重に密封された機密文書入りのカプセルのように思えてきて、その光景は滑稽ですらあると思えるところにいくらか慰めのようなものがあるかもしれない。
このカプセルは一度も開けられることがないままいずれ中身ごと宇宙の藻屑と消えてしまう。だとすれば、できるだけ楽しい気分になるような中身を想像してカプセルの群れを眺めるのが我々にできる贅沢なのではないだろうか。
生きることの苦しみにのたうちまわる心を持つのは自分だけであり、その他全員はまるで遊園地の敷地を練り歩くおとぎの国のパレードのようなものに頭を占拠され、四六時中気分の浮かれる音楽が鳴り響いている可能性があるのだ。
だが苦しみにのたうちまわる私に遠慮してそのことは明かさず、自分も苦しげなふりをしているのだとすれば、雑踏の中でかすかに聞こえてくる出所のわからない音楽は、私の頭に飛び込んできたテレパシーなのかもしれない。超能力はたしかに実在していたのだ。