2019/05/01

私が何を考えているのか、私の顔をどんなにじっと穴が開くほどみつめても他人にはわからないだろう。
これはなんとも奇妙なことだ。これほどはっきりと物を考えていて、自分にとっては疑う余地のないくっきりとした思考の声が、ほんの数十センチ先にいる他人にはまったく伝わらないのだから。この奇妙な事実にくらべたら、テレパシーによって互いの心の声が自由に会話するという荒唐無稽な話のほうがずっと納得がいくものに思えるのだ。
人が何を考えているかが伝わるには、音声なり文字なり、なんらかの手段で出力したものを間接的に参照するしかない。だがそこにはつねに虚偽の申告が混じるため、心の中の真実を知る者はこの宇宙にその人自身しかいない、という途方もない孤独の中で我々は生を全うするしかないのだと云える。
そう考えると町を歩く大量の人間たちがまるで厳重に密封された機密文書入りのカプセルのように思えてきて、その光景は滑稽ですらあると思えるところにいくらか慰めのようなものがあるかもしれない。
このカプセルは一度も開けられることがないままいずれ中身ごと宇宙の藻屑と消えてしまう。だとすれば、できるだけ楽しい気分になるような中身を想像してカプセルの群れを眺めるのが我々にできる贅沢なのではないだろうか。
生きることの苦しみにのたうちまわる心を持つのは自分だけであり、その他全員はまるで遊園地の敷地を練り歩くおとぎの国のパレードのようなものに頭を占拠され、四六時中気分の浮かれる音楽が鳴り響いている可能性があるのだ。
だが苦しみにのたうちまわる私に遠慮してそのことは明かさず、自分も苦しげなふりをしているのだとすれば、雑踏の中でかすかに聞こえてくる出所のわからない音楽は、私の頭に飛び込んできたテレパシーなのかもしれない。超能力はたしかに実在していたのだ。