2019/06/30

バス停があったので、ちょうど時間もあることだしバスを待ってみることにした。
「ふだんバスは全く利用しないので、こんなに近所にあるバス停さえ目に入らなかったというわけか。まさか今日初めて設置されたバス停というわけでもあるまいし」
そう小声で云いながら、私はちらっとバス停の標識に目をやった。
「どうやらあと二分ほどでバスがやってくるようだ。いったいどんなバスが姿を見せるのだろう?」私が想像したのは、横に子供向けの動物などのキャラクターがいくつも描かれた、見ているだけで笑顔に変わってしまうような塗装のバスだ。
どうして子供は動物のイラストが大好きなのだろう? と私は首をかしげた。かわいらしい形をした石や、さまざまなパステルカラーで表現された樹木などには大して関心がなさそうだ。おそらくそんなものが描かれたバスを見てもぷいと顔をそむけ、親に無理やり引きずられなければ乗り込もうとしないだろう。
「だからバス会社としては、本当ならもっと多様な絵柄や題材の絵を描きたいところなのに、子連れ客への配慮から動物しか選択肢がないのだと思われる。それも本来ならリアルなタッチのイラストのほうが教育的な観点から望ましいはずだが、子供たちのワガママにつきあった結果ワンパターンのかわいい絵柄に落ち着くのだ」
動物がけっして可愛いものばかりではないという現実を受け入れられない子供に育ったのは、あきらかに親の責任である。幼いうちから多様な価値観に触れさせるため、選りすぐりの絵本などを買い与えなかった怠惰な親たちの尻拭いを、結果的にバス会社がさせられている形だ。
「そしてさらにそのしわ寄せが、さまざまなイラストの描かれたバスに乗りたい他の乗客たちの願いを押し潰すことに到っている。われわれは社会に一人で生きているわけじゃないのだから、つねに自分ののばした腕や突き出した足が誰かにぶつかっていないか、チェックする義務があるのかもしれない」
私が深くため息をつくと、そのため息に合わせたようにクラクションの音が聞こえた。
見れば道のむこうからバスが近づいていたので、私は逃げるようにバス停から立ち去った。
たまにはバスを待ってみたかっただけで、私はとくにどこかへ行く用事はなかったのだ。

2019/06/29

墓地があることは知っていたが、知り合いの墓があるわけでもないし、足を踏み入れたことはなかった。
一般に墓地を訪れる人は、墓参りに来たか肝試しに来たかのいずれかだろう。どちらの用もなかった私は先ほどもさっさと前を素通りしようとした。
こんなことを云っては気分を害する人がいるかもしれないが、墓地は何となく不気味な感じがして、正直あまり視界に入れたくはないのだ。
あんな陰気な色の石をならべていることで、もし幽霊が出るなら陰気な雰囲気の幽霊だろうなと無意識に想像させてしまう。もっと陽気なカラフルな色彩の墓石がならんでいたら、楽しげなダンスを踊りながら幽霊が登場することが目に浮かび、みんな積極的に墓参りにも訪れるようになるだろう。
そう思うと残念でならないのだが、さっきはそんな私の期待に応えるような目の覚めるような色彩がいきなり目に飛び込んできたのだ。
思わず立ち止まって墓地のほうを見ると、ごく平凡な小さな墓地があるだけだ。たった今見えたと思った鮮やかな色はどこへ消えたのだろう? そう思って敷地に足を踏み入れようとすると、誰かに腕を掴まれた。
「やめておきなさい」
そう話しかけてきたのは、八十歳前後と見える品のいい女性だった。見た目から想像できない強い力で私を引き戻しながら女性はこう続けた。
「今、墓地にそぐわない何かカラフルなものが見えたんでしょう? 陰気な墓地に日頃から疑問を感じている人が、そんな幻影を見て思わず敷地に足を踏み入れるという事件が多発しているんですよ。もちろん、色鮮やかな陽気な墓石などどこにも存在しません。すべては、そんな幻影で人を引き寄せて取り憑こうとする邪悪な霊のしわざなのです」
私は驚いて「取り憑かれた人はその後どうなったのですか!?」と叫んでしまった。
女性は無言のまま首を横に振ったことで、かれらに訪れた悲惨な運命を私に暗示した。
「墓地が陰気なことにはちゃんと意味があるのです。むやみに人が訪れて、悪意ある死者の餌食にならないようにするという意味がね……」
最後は独り言のようにつぶやきながら、女性は道を遠ざかっていった。
もしかしたらあれは人間の老人ではなく、私の守護霊だったのかもしれない。

2019/06/28

近所の公園がいつのまにか閉鎖されていたので、遠くの公園まで足をのばしてみた。
そこは敷地の中心に立派な花壇の設置された公園で、色とりどりの花がつねに目を楽しませてくれる。
だがべつに花を見るために公園へ来たわけではないので、私は無視して手元の本のページを凝視し続けた。
だがそこにびっしりと印刷された文字が、ひっきりなしに語りかけてくる言葉に私はまるで意識を集中させることができなかった。
「これはいったいどうしたわけだろう? 花になど興味がないというのは自分への偽りで、本当は心の底でさまざまな花を眺めることを欲しているのだろうか?」
そんな疑いが首をもたげてきたため、私は本のページから目を上げてみた。
すると視線の先にある見事な花壇に、花柄のワンピースを着た女性が仁王立ちしていたので私は驚いた。
当然ながら足元の花は踏まれ、無残な状態になっている。だが女性は腰に両手をあてて微動だにせず、表情は眉間にしわの寄った大変険しいものだった。
「なんだあの女は! 美しい花を踏みつけて堂々としているなんて気でも狂ったのか?」
私はあわてて立ち上がると、花壇の前へと駆け寄った。
近距離から眺めれば、その女性は美しいものを踏みにじるような粗暴なタイプには見えなかった。もしかしたら何か深い考えがあって、花のためを思っての理性的な行動なのかもしれない。
そう感じた私は苦言を呈するのを思いとどまり、そのまま相手の観察を続けた。
花柄のワンピースを着ていることからも、けっして花の美しさに理解がないタイプではないことが窺えた。
どちらかというと花をライバル視して「私の方がずっとこの花壇に植えられる価値があるはず」といった主張を無言のうちに発している可能性が高いのではないか?
だが花と人間の間には、植物と動物という越えられない壁がある。 地中に根を張って養分と水を吸い上げる花たちと違って、人間はどこかで水や食べ物を手に入れる必要があり、花壇でじっとしているわけにはいかないのだ。
「それとも植物と同じように、その場にじっと動かぬままで必要なものを手に入れる方法をあなたはすでに見つけ出したとでも云うのですか? だとすればこんな地味な公園でじっとしているより、今すぐその方法を書いた本を出版すればベストセラーになり、大金持ちになることも夢じゃないはず。だがもはや自分が花だと信じ込むことに夢中になっている現在、金のことなどまるで眼中にないのだとしたらもったいない話だ」
私が思わずそうつぶやくと、それまで完全に無視を決め込んでいた女性が突如目の色を変えてこちらを見た。
それはあきらかに儲け話に反応した目つきだったので「まだ植物になりきってはいなかったのだ」と私はほっとすると同時に、なんとなくがっかりした気分にも見舞われたのだった。

2019/06/27

どこかで知りあったという記憶もない老齢の無表情な男性と、なぜかテーブルをはさんで私はコーヒーカップを手にしていた。
はっとして周囲を見回すと、どうやら近所の行きつけの喫茶店のようだ。そのことにひとまずほっとしてコーヒーをひと口飲んだのだが、カップを黒々と満たしているコーヒーはまるで氷の融けきったアイスコーヒーのようにぬるくなっていた。
「どうやら正気に戻られたようですね」
相変わらず表情のない老人は私に目を向け、そう言葉を発した。
「まるで私が正気を失っていたかのような言い方だが……」
不本意そうに反論しかけた私だったが、まったく見覚えのない顔の老人といきなり喫茶店に来ている自分に気づく、という状態がまともな精神状態だとはやはり思えない。
「訂正します。どうやらあなたの云うことが正しいようだ」
私は自らの非をすぐに認めて謝罪した。こうした態度が素早く取れるかどうかが、人生において数々の場面の成否を分けるような気がする。
咄嗟に謝ることに抵抗を覚え、間違っていると気づきつつ道を突き進んでしまうと、やがてとんでもない場所に出ることになる。それは本来の目的地とはかけ離れた、荒涼とした土地だったり、後は海に向かって落下するほかない断崖などである。
そこから引き返すのは、はっきり云って時間の無駄だ。そうやって道に迷っているうちに時間切れになり、野垂れ死にするのがオチなのだ。
「むやみに意地を張らず、すぐに非を認めてやり直せばいくらでも挽回ができる。それが人生における広く知られるべきもっとも有益なアドバイスでしょう」
私は老人に向かってそう語った。
だが途中の部分は心の中で思っただけで口にしなかったので、結論だけをいきなり手渡された老人は驚いたのか目を白黒させていた。
しかしながら、それまで人形のように無表情に見えていた顔に生き生きとした感情が現れていることに私は満足し、大きく何度もうなずいた。
もはや自分がどうしてここにいるかなど、些細な問題に思えてきたのである。

2019/06/26

アルバイト先の店長が急死した。店頭で客の応対をしていたところ、その客がいきなり刃物のようなものを取り出して何か叫びながら店長をめった刺しにしたためである。
おかげで店は午後から臨時休業となり、バイトの先輩の話では再開のめどは立たないということであった。
チェーン店だとばかり思っていたのだが、どうやらチェーン店を装って無断で営業していた店らしく、死亡した店長の代役が本部から送られてくる、といった展開にはならないようだ。
先輩も店長から「自分が死んだ場合は誰が店長になるか」といった話は生前聞かされていなかったそうだ。たしかに店長はエネルギッシュで元気そのものという印象の人だったし、持病などもなかったように聞いている。そのままいけばそれなりに長生きをしたはずで、まさか客に、それも毎日何かを買ってくれるお得意様の上品そうな女性客にめった刺しにされるとは予想しなかったのだろう。
だが今さら「この店を今後どうすればいいですか?」と床に血まみれで横たわっている彼に訊ねることもできない。
店を閉めた後は突然ぽっかりと現れた空白のような時間に戸惑い、私は公園へと向かった。
まっすぐ帰宅するのはこのせっかくの小さな休暇を無駄にしてしまうようで、公園の木々の緑を眺めながら次のバイトをどうするか? といったことをこの際じっくり考えてみたいと思ったのだ。
だが自然の風に吹かれながらほんの数分間考えただけで、
「もう誰かに雇われてぺこぺこと頭を下げ、理不尽な命令に従うだけの毎日なんて真っ平だ!」
そう結論が出た私は何かフリーの仕事を始めるべく、そのヒントを得るためにベンチを立ち上がると町をレーシングカーのように駆け巡った。
「私はもう長いあいだ誰かの下僕でありつづけ、そのことに疑問を感じなくなっていた。だが心の深い部分では現状に不満と悲しみを抱いており、あらたな生活へと壁を破って飛び出していく機会を窺っていたのだろう」
町を駆け巡っている最中、つい数時間前まで自分の職場だった店の前を通りかかったような気がした。
「あそこで血だまりの上に倒れている店長には大変気の毒だが、今日に限って包丁を持参して来店したあの女性客は、なかなか思い通りの人生を生きられない私を縛る鎖を断ち切るべく、その刃物を店長に振り下ろしたのかもしれない」
そう思うと名も知らぬ上品そうな女性客が、にわかにギリシア神話の女神のような輝きを帯びてくるのがわかった。
今すぐ店に戻ればあの女性がまだ現場に立ち尽くしており、感謝の気持ちを伝えられるかもしれない。
だが私はすぐにそれをあきらめて心の中で感謝するにとどめた。
店の鍵は先輩バイトが管理しており、私には中へ踏み込む手段が存在しなかったのである。

2019/06/25

最近私は、誕生パーティーに出席する機会がないことに思い至った。
「どこかで誕生パーティーを行っている家はないだろうか?」
もちろんその家には、今日が誕生日の人が住んでいるのである。だとすれば、まずはそんな人を見つけ出すのが先決だ。
「一年は三百六十五日ある。ということは三百六十五人の人間がいる場所を訪問すれば、そこには今日が誕生日の人が一人存在する、という計算になる……」
私はあまりにもすらすらと自分のなすべきことが口から出てくるので、まさか誰か優秀な頭脳を持った人間が私のかわりに物を考え、導き出した結論を私の口の中に仕込んだ小型スピーカーから発表しているのでは? という疑いにとらわれた。
だが口の中に手を突っ込んでくまなくさぐってみたが、そんなスピーカーは見つからなかったのである。
「どうやらそんな仕掛けはなかったらしい。これで思う存分発言できるぞ!」
喜びのあまり私の声は大きくなり、通行人が何人か振り返ったほどだった。
だがその数はまだまだ一年の日数には遠く及ばない。これでは当初の目的が果たせる望みは大変うすいのだ。
「もっとたくさんの人がいる場所へ行かないとどうにもならないぞ!」
私は焦りのあまり自転車の漕ぎ方がわからなくなり、あれよあれよというまに電柱に衝突。すっかり鉄屑に変わってしまった自転車を乗り捨てて、そこからは徒歩で移動した。
「だが、周囲はますます寂しい景色になりつつあるので、これでは大勢の人の姿を見つけ出すことは奇跡に等しい」
たんに人がいないだけでなく、鬱蒼とした森の中にとらわれつつある私の周囲は不気味な生き物たちの鳴き声に満ちつつあった。姿こそ見えないが、声のバリエーションがさまざまな種類の生物の存在を知らせていたのだ。
「森には無数の生物の気配がある。ということは、ここには無数の誕生日を持つ存在がうごめいているということだから、今日が誕生日の生物だって一匹や二匹じゃないだろう。とはいえ、人間と違って彼らには誕生パーティーを行うような知能はないから、もしパーティーがお望みなら私自身が主催者にならなければいけないようだ」
私はパーティーこそ大好きなものの、自分が主催したことは一度もない。そんな発想がそもそも頭になかったのである。
「まるで自分はいつももてなされる側だと信じていたようで、恥ずかしい限りだ……」
今度機会があったら誰かのために思いきり豪華で心のこもったパーティーを開催しよう、と私は胸の中で誓った。
その「誰かに」なるのは、もしかしたらあなたなのかもしれない。

2019/06/24

聞くところによれば、UFOは特定の土地の上空に頻繁に出現するのだという。
もちろんその理由は我々の知りうるところではないが、その土地の地底などにUFOのための秘密基地が存在することは、容易に想像できる話だろう。
「人々がちょんまげを結っていた時代ならいざ知らず、もはや誰もちょんまげを結っていない現代に地面の下に基地など勝手につくられて近隣住民がうっかり気付かない、などということがありえるだろうか? 我々の科学的な水準がそんなぼんやりしたお猿さんレベルの時代をとっくに通り過ぎているのは明白なのだ」
そんな疑問の声を漏らす人も、おそらく少なくはないはずである。
だが考えてみてほしいのは、UFOなどを空に飛ばすような存在(それは地球外生物という説と、地球上の隠された何らかの怪しい組織だという説がある) の誇る科学の水準は、我々の想像することのできない非常な高さに到達していると想定できるということだ。
地中深くどころか、家のすぐ隣の空き地にかれらの秘密基地をつくられても、我々はまったく気づかないまま晩ご飯の支度をしたり、テレビのバラエティ番組に笑い声をあげているのではないか?
それほどまでの文明の格差を認めるのは、誇り高い先進国の人間には屈辱的かもしれない。だがここは謙虚に現実を受け止めるとすれば、我々の社会とUFOの世界は平然と重なったまま何百年、何千年という歳月を過ごしていたとしても不思議ではない。
蟻が人類の存在を意識することはなく、たまに踏まれたりいきなり掴まって足をもがれるなどの災難に遭った時だけ「何か知らないが巨大なもの」として認識するように、我々がUFOだと云って写真に撮って騒いだりしている代物は、蟻にとっての人間の手足のようなものかもしれない。
「この話を近所のUFO研究家の青年に話したらどんな顔をするだろう? 目を輝かせて聞き入るか、それともそんな夢のない話は聞きたくないと云って耳を塞ぐのか。どちらを選ぶかで、あの青年の探求心が本物かどうかがわかることだろう」
そうつぶやきながら私は青年の顔を頭に思い浮かべた。
まるでちくわに目鼻を付けたような興味深い顔だった。今度見かけたら、写真にでも撮っておこう。

2019/06/23

伊豆半島のどこかに小さなホテルがあり、その三階か四階に牛のような顔の男が泊まっていて、とくにどこへ出かけるでもなく部屋で本を読んでいるようだ。
本のタイトルは『あなたは牛に似ている』だった。そんな本ばかり読んでいるから牛に似てしまったのだろうか? あるいは、そんなに牛にそっくりな顔にも関わらず、彼には自分が牛に似ているという自覚が乏しいのかもしれない。その場合、家族や親しい友人などに勧められ、渋々そんな本を読んでいるのだろう。
だが読み始めてみると案外面白くてつい夢中になり、本来なら休暇を釣りやサイクリングなどで有意義に過ごすはずが、ついホテルにこもって貪り読んでいるのだとも考えられる。
ふだん読書の習慣などないサラリーマンをそれほどまでに夢中にさせる『あなたは牛に似ている』とは一体どんな本なのだろう?
そう思って私はネットの検索機能などを使って調べてみたが、どうしても情報にたどり着くことができなかった。
だからあくまでこれは想像に過ぎないが、きっとただの無味乾燥な文字の羅列にとどまらず、センスのいい挿絵や、部屋に飾りたくなるようなオブジェの写真などもふんだんに添えられた本なのだろう。
出版不況と云われる現在、中身さえ充実していればあとは自然に売れるはずという殿様商売の時代は、とうに終わったのだと考えられる。
表紙のデザインから印字されるフォントなども含めて、対象となる読者の元へ最短距離で届くような設計がなされていることがこれからは重要になっていく。ちょっとでももたついていたら道を外れてしまい、それはふさわしい読者のところへ二度と到着するチャンスを失うのだ。
伊豆半島のホテルの三階か四階で、自分と向き合う時間を過ごすのにふさわしい本というのがもしあるとすれば、きっと装丁や全体のレイアウトなどがその日その時間に、その部屋へと届く宛先のようにあらかじめデザインされていたのだろう。
そんな運命的な一冊と出会えるチャンスは、人生にさほど多いわけではない。夢中で本のページをめくる彼の横顔を想像すると、思わず私の頬も緩んでしまう。
ぜひ私も同じような出会いを体験したいものだ。血眼になって本屋をめぐるのではなく、自然体で構えているところへ偶然飛び込んできた小鳥のように手元に訪れる一冊。
そんな素敵な出会いにそなえて、毎日美味いコーヒーを淹れて待っていたいものだと思う。

2019/06/22

自宅からさほど離れていないことは知りつつ、一度も訪れたことのない公園があった。
ほんの気まぐれから「あの公園で一時間ほど過ごしてみよう」と思い立った私は自転車に跨り、約五分ほどで公園の前に到着した。
噂に聞く通り、緑が多く木陰が豊富なうえにベンチが点在しており、この規模の公園としては十分合格点を出したいところだった。
だが、いざベンチに腰掛けようと思うといったいどのベンチを選ぶべきか迷ってしまう。
もっとも涼しげな広い木陰のベンチには、すでに先客がいるようだ。可愛らしいプードルを連れた老婦人が、いかにも散歩の途中のちょっとした休憩という様子で腰かけている。
おそらく、それほど長居するつもりはなく、まもなく席を立つことだろう。
それを待つのもいいが、いかにも手持無沙汰に立ったまま老婦人を凝視しているのは、なんとなく気が進まなかった。だがべつのベンチにひとまず腰を下ろして、老婦人が席を立ったら移動するというのも「ベンチでひたすらぼんやりと一時間ほど過ごし、帰宅する」という当初の計画を裏切るようで引っ掛かりを覚えるのだ。
「今すぐあの老婦人にベンチを譲ってもらえるよう、交渉しようか? 聡明そうなご婦人だから咄嗟にこちらの意を汲んでくれそうな気がする。私のことを決して、無理難題をふっかけてくる変人という目で見ることはないはず。それとも二人掛けるのに十分な幅はあるのだし、少しベンチの端に寄ってもらうことで相席をお願いし、世間話などをしたのちに老婦人が立ち去った後で、あらためて一人でぼんやりとした時間を過ごせばいいのかもしれない」
そんなことを考えながら自然に足が動いて、いつのまにか私は老婦人のいるベンチの前に立っていた。
いきなり目の前に無言で佇むという不躾な行為に及んだ私に対し、老婦人は特に迷惑そうにふるまうでもなくにこやかにこちらを見上げていた。
「おそらくあなたの目には、私は可愛い小動物を連れた上品そうな老人と映っていることでしょう。けれど実際にはこのプードルは死んだプードルの剥製に過ぎないし、私はこの町でも札付きの徘徊老人で、他の入居者を三人も殺害したほどの凶暴さのために施設を追い出され、こうして野に放たれた状態にある危険人物なのです。それ以上接近することはあなたの身の安全を保証しません。人間という肉体的には脆弱な生物が地上の王になっている意味を考えてみれば、外見で人物の危険度を測ることの危うさがお分かりになるでしょう」
老婦人の声はいかにも品のいい話し方とは裏腹に、そんな物騒な内容を伝えてきた。
私は驚いてプードルの顔を凝視した。声は婦人ではなくその可愛らしい犬から聞こえてきたのである。
だがたった今聞いた言葉通り、プードルは地面に座ったままぴくりとも動かない。おそらく剥製の小犬の体のどこかにスピーカーが内蔵され、そこから声が漏れ聞こえてきたのだろう。
だとすれば、その声はあらかじめテープなどに録音されたものなのだろうか? それとも近傍のどこかに声の主が身を隠していて、そこから様子を窺いつつリアルタイムでマイクに向かって言葉を発しているのだろうか。
それを確かめるべく、私はプードルに向かって「お名前は何というのですか?」と質問してみた。
すると間髪入れず、
「マルガリータ」
そう答えが返ってきたのである。
だが私は「犬に向かって敬語で話しかけた」ことがなんとも恥ずかしくなり、思わず赤面してしまった。
それにこの場合名前というのははたしてプードルの名前なのか、それとも老婦人の名前なのかが判然としなかった。
どちらの名前であってもおかしくないと、私には思えてならないのだが。

2019/06/21

人はみな、自分を生かす力に対して感謝の念をおぼえるとともに、感謝することへの屈辱に打ちのめされてもいる。
この矛盾した感情を、それぞれこの地上で身近に目につく別々のものに割り振り、それぞれに祝福と呪詛を使い分けることで引き裂かれた自分をどうにかまとめ上げていると云えるだろう。
祝福の対象と呪詛の対象に、実のところたいした違いはないのだ。極端なことを云えば、祝福したい気分のときに目についたものが祝福され、呪詛したい気分のときに目にしたものが呪詛される。それぞれに与えられる理由など後付けに過ぎない。われわれは生きていくうえで、祝福の歌と呪詛の歌を交互にうたわなくてはならない生き物なのだ。
まともな、つまり周囲からそれなりの敬意を払われるべき人間であれば、それぞれの歌を捧げる対象の選択にも手抜かりはないだろう。隣人たちと同じ対象へ同じ歌をうたう、少なくともそのふりをすることで、われわれはこの地上で自分の場所を得ていると云えるからだ。
また、今みずからがくちずさんでいるのが祝福の歌なのか呪詛の歌なのか、その点を曖昧にすることで後からいくらでも言い訳がきくようにするというのも一つの処世術だろう。
そもそも「歌」はその詞にせよ旋律にせよ、明確な意味を読み取れるようなものではない。その曖昧さに逃げ込んでどうにかやり過ごし、後になって一種の「答え合わせ」の時間を迎えたときに、まわりを見てうまく口裏を合わせる。案外そのようにして、たいていの人は「二つの歌」とうまくつきあっているのかもしれない。
もはや何のための「歌」なのか不明としか云いようがないが、それでもなお歌うことをやめられないのが人間であり、すべてはこの感じやすい猿たちにつまきまとうあらゆる「快」への屈辱がとらせる、その場しのぎの取り繕ったポーズなのではないだろうか。

2019/06/20

たびたび赴くことのあるコンビニが、雨が降っているせいだろうか? どこか物憂い空気に満たされていた。それは誰かの感情が店内をそんな雰囲気に染めているといった印象ではなく、その建物自体が、そこにいる人たちに感情を伝染させているかのようだったのである。
「こんなことは時々あるんですよ。コンビニというときわめて無機質な、どこでも同じコピーされたような店舗だと思われている節があります。でも実際はどこか生き物のような得体の知れなさが感じられ、突然機嫌が悪くなったり、笑い出したり、はたまたこんなふうに憂鬱に沈むこともあるんです」
顔見知りだが一度も話したことなどない店員が、何も訊かないうちにそう語りかけてきた。
きっと私の顔に「この店はどうしてこんなに物憂い雰囲気なのだろう?」とでも書かれていたのだろう。
店を訪れる客がどんなことを思っているか、顔を見ただけで察知するのはすぐれた店員の特徴である。普通は察知してもただ黙って見守るだけだが、ここぞというタイミングで助け舟を出すことができるのが、そうした店員の特権というべきものだ。
「コンビニを訪れる私たちは、知らぬ間にそのコンビニを介してひとつの気持ちを共有しているということですね。それはSNSにおけるカジュアルな政治的連帯にも似た、これからの社会をよくしていくための運動の出発点にコンビニもなっていく可能性があることを、私たちに示しているのかもしれません」
私がそう返答すると、店員はメランコリックな表情のままうなずいた。そこへ割って入るようにレジに商品を置いた女性客もまた物憂い顔で、この店と連帯する一人であることがうかがえた。
いつかこの店が単なる幼児的な喜怒哀楽の発露を卒業し、真に社会を改革し理性と思いやりに満ちた理想的な世界をつくる意識に目覚めたなら、私たちはそのための手足として惜しみなく働くべく喜んでこの自動ドアから外へ飛び出していくだろう。
その日まで、あとどれくらいの月日が必要だろうか? そんなことを胸のうちで思いながら、私は特に何も買わずコンビニを後にしたのだった。

2019/06/19

梅雨の時期は毎日の散歩を怠りがちになり、運動不足から健康に悪い影響が現れることが懸念される。
頭の中でさまざまな特色のある町を散歩することは多いが、そのとき肉体はとくに使っていないのでそれだけでは運動にはならないのだ。
頭の中でさまざまな町を散歩するくらいなら、自宅の特筆すべき点のない六畳間をぐるぐると何周もしていた方が、健康管理のための行為としてはずっとましなのである。
見慣れた景色が、しかも短い周期でくりかえされるだけなので何ら楽しい気分にはならず、これなら洗濯物として洗濯機の中で回転していたほうがよほど充実した時間が過ごせるのでは? と思うほどだが、ここで私はあるひとつのアイデアを思いついた。
見慣れた六畳間をぐるぐると回転する際に目をつぶり、同時に頭の中でさまざまな興味深い点のみられる町を散歩して回るのである。
実行してみたところ、これはなかなかすぐれた方法だとわかった。運動になるというだけでなく、実際に歩行しながらの想像には臨場感が生まれ、バーチャルリアリティーとでも呼びたくなるような迫真の街角が目の前に出現したのだ。
「この道沿いには三角形だけを組み合わせたような奇妙な家ばかり並んでいるな。そして横を走り抜けていく自動車は表面に無数のキノコが生えていて、まるで森の奥に何年間も放置されていたかのようだ……」
感銘を受けながら歩いていると、突然そのキノコカーの一台がハンドル操作を誤ったのか、私に向かって突っ込んできた。
跳ね飛ばされた衝撃で思わず目を開けると、眼前にはキノコカーではなく子供用のカラフルな玩具の車と、それにまたがって驚いたように目を見開く幼児の姿があった。
どうやら私は散歩する町の光景があまりにリアルだったため、部屋を飛び出してアパートの前の路地を裸足でさまよっていたらしい。
「なるほど、あまりにリアルにつくられた人工世界は現実との境界線が薄れ、それを体験する当事者をふらふらと現実の外へとさまよわせる危険があるということがわかった。だが本人にとっては現実の外でも、現実はそんな想像の世界を包み込むようにして続いているのだ。そこで出くわすさまざまな軋轢に対して、夢の住人にはなんら責任は取りようがない……」
私は自分の置かれた立場をすみやかに言葉にして整理したが、目の前の幼児には少々話が難しすぎたようだ。
ぽかんとした顔でこちらを見上げていたと思ったら、「ぶー、ぶー」とつぶやきながら車とともにどこかへ行ってしまった。
他人を轢いておきながら謝罪の言葉すらない。そんな彼もまた、何らかの仮想現実の中をさまよっているのかもしれない。

2019/06/18

昔住んでいた町をふと訪れたところ、一本の木が生えていた。
こんな木が当時生えていたかどうか、そんなことまでは覚えていなかった。痩せていて簡単に折れそうな木だったので、ごく最近生えたのかもしれないと思った。
試しに握って力を入れると、ほんとうにポキンと折れてしまった。
「だがこの木はきっと最近生えたはずだと、つい今しがた思ったばかりだ。それはべつに、折ってしまったから罪の意識を軽くしようとしてそう思ったわけではない。折ってしまう前にそう思ったのだ。だから逆に云えば、最近生えた木だからべつに貴重ではないし、すぐにまた生えるだろうとの思いが無意識にあって、つい力を入れ過ぎてしまったのかも」
そう独り言を口にしてはみたものの、記憶をたどるとこの場所にはやはり昔から木が生えていたような印象がある。
その木には、ちょうどこんな季節には豊かな果実が実り、それをもぎとって齧りつくのが毎年の楽しみだったのだ。
私がポキンと折ってしまった木には、もう二度と実りの季節は訪れないかもしれない。
だが、よく考えてみれば現在ひとつの果実も生っていないこの木は、すでに果実をなす力は残されていず、あとはただ余生を過ごすだけの存在だったような気もする。
そもそもくだものなど、その辺の木に生っているものを食べるのではなく、スーパーで購入して食べるのが文明人のたしなみではないか?
そんなものを喜んで食べていたかと思うと、かつての自分が猿同然の野蛮人に思えてきて不愉快な気分になる。
「そんな思い出したくもない過去とつながるこの木を折ってしまったことは、結果的に私をさらに文明的な生き方へと後押しするいい機会となって、むしろ喜ばしい出来事だったのかもしれないな」
そう思うと私はすっかり機嫌を直して、帰りにはスーパーで枇杷を買った。

2019/06/17

バイト先の書店がリニューアルオープンした。書籍が売れないと云われる昨今だが、その書店も例外ではなく売り上げは日を追ってがた落ちになり、このところ給料の支払いも滞りがちだった。
だが今日からは売れない書籍を店頭から一掃し、確実に売れ行きの上がる本のみを販売する書店に生まれ変わることで、バイトにろくに給料も払えない奴隷労働のような現場が改善されることを期待して出勤したところ、店にはパンダの写真が表紙の本だけがずらりと並んでいたので驚いた。
「長年に渡る書店経営の経験から導き出したのは、パンダの写真が表紙に印刷されている本は飛ぶように売れる、ということなんだよ。本のジャンルとか作者とか、中身には一切関係なくただ表紙にパンダの写真があることだけが共通項。その他の違いによる売り上げへの影響は些細なもので、確実に計算できるのは表紙のパンダだけなんだよね」
店長はそう熱弁し、白黒のコントラストに占められた店内をうっとりした目で眺めた。普段ならそんな演説を聞かされたら「寝言はまともに給料を払ってから云え!」と怒鳴りつけたくなるところだが、ずらっと並んだパンダの写真の癒し効果によって私も店長の言葉を鵜呑みにし、たしかにそうなのかもしれないという気持ちになっていた。
こうしてパンダの写真が表紙の本の専門店となったバイト先は、いったいどこで聞きつけたのかたちまち大勢の客が押しかけて満員状態になった。
だがパンダの愛らしい写真に惹かれて訪れる人たちだから、そんな混雑の中でも笑顔を絶やさず、レジには不平も漏らさず整然と並ぶし、お互いに手の届かない場所にある本を手渡しあうなどお客さんどうしの連係プレーも抜群。ネットで些細な意見の違いから相手を虫けらのように罵倒する光景を見慣れた目には何とも新鮮で、心が洗われるような光景が展開された。
「こんなことなら最初からパンダの写真が表紙の本だけを売っていればよかった。これからすべての出版物にパンダの写真を義務付ければ、出版不況という悪夢も霧消してさわやかな朝のような日々が訪れるのでは?」
とぎれることのない客の応対の合間に、店長はそんなことをつぶやいていた。うわ言のような口調ではあったが、もちろん目はとてもやさしく笑っていて、どこかパンダを思わせる顔でもある。

2019/06/16

生きることにはさまざまな苦しみがともなっている。それらを引き剥がし、ただ穏やかに日々を送りたいと願うのは贅沢なのだろうか?
雨の日が不快だからといって、毎日快晴にすることができたら水不足で人は絶滅してしまう。それがゆるぎない真実だというのなら、せめて雨を不快に感じず、どんな雨でも楽しめるくらいには我々の日々の苦しみの対象を、そう感じないようにわれわれをどうして神はつくってくれなかったのか?
そんな人生の根源的な問いが心の奥から暗い泉のように湧いてきたので、バイトを休んで家で酒を飲んでいたら突然電話がかかってきた。
どうやらバイト先に「休みます」という連絡をするのを忘れたらしく、電話のむこうで店長は無断欠勤だと思い込み、烈火のごとく怒っているようだ。
そうではなく、これは人生の根源的な問いに絡みつかれて立ち上がれなくなり、連絡さえも忘れてしまうほどの重症なのだと説明したがわかってはもらえなかったようだ。
今すぐ出勤してこなかったらクビだ、という宣告が一方的に為されたので、私はため息まじりにこうつぶやいた。
「まったく、資本主義に洗脳されて金儲けに血眼になっている商売人というのは、たまには哲学書をひもとくような余裕もないのだろうか? それくらいの多忙さの中に閉じ込めておくことで、現状への批判的精神を育む芽を摘んでおくという資本のぬかりない企みを感じる。そろばんを弾くのだけが得意な猿たちが、我が物顔で高い地位を誇るのが現代社会なのだ。このまったくひどい見世物小屋の中では、哲学書の売り上げは減少し続けるしかない……」
独り言のつもりだったが、どういうわけか電話のむこうの店長にも届いたらしい。反論にもならない喚き声が聞こえたかと思ったら電話は切れていた。
どうやらクビだと云いたいらしいが、今ここで電話をかけ直して説得しても、頭に血がのぼっている彼には私の言葉は理解できないだろう。
後日改めて、かんたんな哲学の入門書などを持参して店に顔を出し、さりげなくお勧めするところから会話を始めたいと思う。
資本主義に飼われた猿に過ぎないとはいえ、店長の料理の腕はなかなかのものだ。
とくにナポリタンの味は絶品であり、みなさんも機会があれば味わってみてはいかがだろうか?

2019/06/15

何の音も聞こえていないラジオをじっと見ていると、聞こえるはずのない番組がそのスピーカーから流れているような気がしてくることがある。
それはラジオを聞くという子供の頃からの習慣が、物体としてのラジオに染みついた記憶として何度でも体験を反復しようとする、人間存在が演じる不思議な戯れなのだろうか。
「馬鹿な。何も聞こえるはずがないじゃないか……」
電源が入っていないどころか、電池切れになったまま何年も交換していないラジオ。そんないわば仮死状態のラジオを前にして、私は自嘲するようにぽつりと呟いた。
だがいったん奇妙な暗示にかかってしまった私には、そんな自分の声さえスピーカーから聞こえたパーソナリティーの声のように感じられたのだ。
(こんなことでは、うかつに独り言も云えないな……)
私は頭の中でそう吐き捨てると、テーブルの上のラジオを睨みつけた。
すると驚くべきことに、そんな心内語さえもがスピーカーを通じてパーソナリティーの愉快なお喋りの口調で聞こえてきたのである。
これではもう、私は独り言どころか、心内語さえも禁じられたも同然なのだ。
何も口にしてはならないし、何も考えてさえもいけない。べつに誰かに命じられたわけでもないそんなルールにがんじがらめとなり、私は自分の部屋にいるというのにまるで人権意識の低い蛮族の国の牢獄にいる気分になっていた。
そのとき窓の外に、近所でたまに見かける老婆が不審そうにこちらを見つめて立っていることに気づいた。
時々自宅を抜け出して気ままに徘徊し、町内放送で情報提供が呼びかけられているちょっとした有名人の老婆だ。
その老婆がどうやら何かを話している口元の動きが、窓越しに見て取れた。
「自分を縛る鎖をまるでご自慢のファンションの一部のように感じていないか? まずはそのセンスのいい衣類とやらを脱ぎ捨てて、可能な限り自由になってみるのが大切なのだと思われる。自由を恐れる心が、ありもしない牢屋を幻視させるのだろう」
厚いガラスに阻まれて、実際に聞こえてはいないはずの彼女の声が、電池切れのラジオから低く漏れ聞こえてきたのだ。
私は感銘を受けてその言葉を聞きながら何度もうなずいた。庭に無断侵入してきた徘徊老人が実際にその発言をしているわけでないことは理解しているが、それではこの素晴らしいアドバイスを惜しみなく私に与えてくれたのはどこの誰なのだろう?
しばらく考えてみたがいっこうに結論は出ず、いつのまにか外は暗くなっていた。
老婆はまだ同じ場所に佇んでいるようだが、闇に紛れているのでとくに気にならない。

2019/06/14

聞いているだけで優しい気持ちが湧いてくる、そんな心地よい鳥の声が隣家の庭先から聞こえていた。
だが隣家では猫を数匹飼っていたはずだから、あの声の持ち主はペットの鳥というわけではないだろう。猫は鳥が大好物だし、猫のエサにするためにわざわざ心地よい声で鳴く鳥を生きたまま買ってきた、とも思えないからだ。
だが、私は最近もう若くはないせいか、世の中の動きに若干遅れ気味なことを認めなければならない。
現実には「心地よい声で鳴く鳥を生きたまま買ってきて、飼い猫におやつとして与える」ということが愛猫家たちの間でひそかにブームとなっているのかもしれない。
その場合、表面的には「猫ちゃんたちの狩猟本能を適度に刺激することで老化を防止」などの効用がうたわれているが、実際は心地よい声で鳴く鳥が生きたまま飼い猫に食い殺される様子を見物して、飼い主の嗜虐心を満たすために与えられているのだ。
私は隣家のかわいらしい猫たちが口元を血まみれにしているさまを想像し、すっかり気分が悪くなった。
いくらそれが野生の本能に基づく行為だとはいえ、ペット化されたかわいらしい動物にそんな残酷な場面を演じさせるのは承服できない、今すぐやめてくれ! と叫びたくなったのだ。
何とかやめさせる手立てはないものか? そう思いながら隣家の庭を凝視していると、庭木から一羽の鳥が飛び立って近くの電柱にとまるのが見えた。
ごくみすぼらしい外見をした貧相な鳥だったが、その鳥は見かけとは裏腹になんと聞き覚えのある心地よい声でいきなり鳴き始めたのである。
すると私は急速にその鳥への関心を失い、窓を閉めると読みかけのかわいらしい猫たちの写真集のページに視線を戻した。
かわいらしい猫たちの老化防止のためなら、多少の貧相な外見の鳥たちの命の犠牲もやむをえないのは云うまでもなかった。
その鳥の声が心地よくてどうしても聞きたいというのなら、猫が食う前に録音しておいて、後で好きなだけ聞けばいいのである。

2019/06/13

ひとつ残らず危険な、朽ちかけた遊具だけが並ぶ児童公園がどこかにあった。
そんな公園でうっかり子供を遊ばせてしまい、大事故が起きてからでは遅すぎる。今すぐ現場に駆け付けて出入り口をロープでふさぎ「危険につき立入禁止」という表示を出さなければならない。
それだけでは不安なので、自ら公園の前に立って道行く人たちに、
「ここの遊具はどれも錆びたり腐ったりしていて、とても危険な状態です。今すぐメンテナンスの必要があり、それが終わるまで子供たちを遊ばせるわけにはいきません」
そうアナウンスしなくてはならないという衝動に私はとらわれたのだった。
もちろん、大人が危険を承知でどうしても錆びついたジャングルジムや、ねじのとれかけたブランコで遊びたいというのなら「自己責任でどうぞ」と云うほかはない。だが子供たちは駄目なのだ。たとえ危険を承知で遊びたいと駄々をこねても、子供には「危険」を正確に知ってそれを「承知」するための能力がない。そこは大人がおせっかいにも口出しして、かれらが成長して自分の判断力を持つまで守ってやらねばならないのだ。
実際には、大人になったからと云って必要な判断力がつく保証はない。そんなものは持たない大人のほうが多い可能性だってある。だがそんなことを云い出せば、この世の中枢を担うような頭脳の持ち主たちがいちいち人々に「あれはしていい、これはしちゃだめ」という指示を出さなければならなくなり、繁雑すぎてとても社会が回っていかない。
だから嘘であっても「大人には自分で責任をとれる能力がある」ということにして、朽ちた遊具から大人が落下して死亡した場合はとくに問題にはせず、自然死のような扱いに落ち着くというのが現状の社会のあり方なのである。
ところであのひとつ残らず危険な、朽ちかけた遊具だけが並ぶ児童公園はどこにあったのだろう?
公園には奇妙な顔の人形のようなものも展示されていた気がする。動物でも人間でもない、しいて云えば果実が潰れたような顔の人形たちが、さまざまな不安なポーズを取らされて数メートルおきに何体も置かれていたのだ。
でたらめに赤や白のペンキを浴びせたような着色で、まるで猿に工作させたかと思うほど不出来な代物だった。
それらの不気味な人形のずっとむこうに、ペンキのように真っ赤な夕日が沈んでいく光景を覚えている。
おそらく二、三年前の初夏に、伊豆半島のどこかで訪れた児童公園だったはずなのだが。

2019/06/12

テレビを見る時間は、自分一人のために上映されている映画を観ているような贅沢な気分を味わうことができる。
もし神という架空の存在が実在するなら、こんな気分で毎日世界を眺めているのだろう。そう思えるほどテレビのチャンネルをリモコンで気ままに変えることには、どんなことでも可能な力を手に入れたかのような錯覚がともなう。
だからテレビはとても危険なメディアなのだ。そう心の中でつぶやいた私はリモコンで電源を落とすと、暗くなった画面に背を向けて部屋を出た。
夕暮れの町はみなどこか忙しそうで、そのせわしなさが活気を生んでいるように感じられた。
商店街の雑踏に身を投じてみると、自分の意志とは無関係に勝手に人の流れに呑み込まれ、どこかへと運ばれていくのがわかった。期待と不安の入混じった心で身を任せていると、やがて雑踏から吐き出されたように見知らぬ店の中へ飛び込んでいた。
一見すると肉屋のようだが、ガラスケースの中に収められた肉らしきものには髪の毛や爪、歯などのように見えるものが紛れ込んでいた。
ということは、これらがもし売り物としての肉だとすれば、ここは人肉を売る店だという話になる。
そんな不快な店に長居するのはごめんだ! そう思った私はふたたび雑踏へと飛び出していった。
店を出る瞬間にちらっと振り返ると、ガラスケースのむこうには気弱そうな腰の曲がったおじいさんが一人で店番をしているのが見て取れた。
それを見て「やっぱりここは普通の肉屋で、人肉に見えたのは気のせいかな?」と思いかけたが、あわてて私はその考えを否定した。
虫も殺さないような顔をしている人間ほど、実際には大量の人命をもてあそぶことに躊躇がない、ということがよくあるものだ。
人肉を売るという違法な商売が今まで続けられていたのは、案外そんなことが理由なのかもしれない。

2019/06/11

他人の家の中を詳細に観察することは、めったにないことだ。相当親しい間柄であっても、リビングなど来客用に用意された部屋以外へ足を踏み入れるのは、プライバシーの侵害だとして嫌われるものである。
とくに個人を尊重し合う風潮が定着した現代では、簡単な用事なら玄関先で済ませるなどして、できるだけ自宅に人を上げないことが普通だし、防犯的な意味でもそれが推奨されるようなところがある。
設備の検査などでやむをえず他人を家にいれる場合は、相手が信じるに足る人物であることを証明する身分証の提示が求められるだろう。親しい間柄ではもちろんそんなことはないが、だからこそ逆に「そういえばこの人には身分証を見せてもらったことが一度もないな……」という疑いの目で、ふと友人の顔を見てしまう瞬間もあるような気がする。
たとえお互いをホームパーティーに呼び合うような気心の知れた相手でも、年に一度くらいは互いに身分証を見せあい、相手の身元を確認することはあったほうがいい。
身分証の提示を求めることが失礼だと思うような相手とは、そもそもつきあうことを避けるべきなのだ。それは現代における人付き合いの最低限のマナーであり、物騒な事件がテレビをにぎわすような毎日の中でリラックスしたひとときを過ごすためには、刃物を振り回すような狂った人間である可能性をできるだけ互いに排除し、にこやかな笑顔が本物の心から生まれたものであることを証明し続ける必要がある。
そのためにもっともふさわしい証明書は何かということを二、三時間ほど考えてみたが、やはり顔写真付きのマイナンバーカードこそが最もふさわしいという結論に達した。
政府が「この人はこういう12桁の番号を割り振られた唯一の人間ですよ」ということを保証してくれるマイナンバーカードこそ、私やあなたが突然刃物を振り回すことなく、にこやかなまま労働やレジャーで日々を過ごす存在であることを証明してくれる唯一のカードなのかもしれない。
マイナンバーカードの前では、社員証や保険証、パスポートも免許証もすべて紙吹雪のように吹き飛んでしまう。
この誰もが持つべき便利なカードを請われればいつでも提示できる人々だけが、玄関から先のわが家へ通してもいい選ばれた人々なのだ。
わが家で次回パーティーを開く際には、それぞれ自分をあらわす12桁の番号のプリントされたTシャツを着ていることが、参加のためのドレスコードだ。
他に参加条件は何もない。ガスの検査員でもNHKの集金人でもかまわない、どしどし気軽にパーティー会場に飛び込んできてほしい。

2019/06/10

夜更かしをしていると、夜空の闇がスクリーンになったかのように普段は思い出すことのない、過去の些細な記憶がよみがえってくることがある。
どこかひなびた田舎町の道を歩いていたら、むこうから人間と同じ大きさのニワトリが歩いてきた。そんな場面が突然脳裏に浮かんだので私は思わず、
「なんだあのでかいニワトリは! 化け物じゃないのか!?」
そう叫びながら記憶のスクリーンから目が離せなくなった。
餌を与え過ぎたために異常に成長した、などという説明では無理があるくらい巨大なニワトリだった。だから当然のように「中に人間が入っているのでは?」という考えが頭に浮かぶ。
そこで目を凝らしてみたが、作り物っぽい細部、ファスナーのたぐいは見当たらないようだ。これでもし着ぐるみなのだとしたら、その製作者の技量は相当なものだ。あらためてその腕を称賛する必要があるだろう。
だが今はいったん、これが本当に巨大なニワトリとして実在する可能性のほうを信じることにする。その場合、自分と同じくらいの背丈の人間である私は、ニワトリの目にどのように映るのだろうか?
ニワトリはたしか虫やミミズを食べるはずだから、さすがに捕食対象とはならないだろう。だがなんらかの敵とみなされ、襲いかかられる危険があった。
あんな頭の悪い生物が巨大化して、本気で襲ってきたら大変なことになる。説得することはおろか、脅して追い払うことさえ不可能だろう。そう思うと暗い気分になってきて、このまま自分はあのニワトリの化け物に虐殺されて一生を終えるような気がしてきた。
だが考えてみれば、これは記憶のスクリーンに映し出された映像なのだ。すべては過去の出来事であり、私は無事生還して歳月を経たのちに懐かしく思い出していることになる。
もしそうでないなら、私は今ニワトリに全身を突きまわされた結果死の床にあり、そんなつい最近の出来事をまるで遠い過去のように思い出しながら、静かに息を引き取ろうとしているのかもしれない。

2019/06/09

突然にわか雨に降られて、屋根のある場所ならどこでもいいという気分で駆け込んだ場所が、とんでもない幽霊屋敷だったことはないだろうか?
私はまだないのだが、この世には殺人事件や心中事件など、悲惨な出来事の現場になって以来放置されている物件が数多く存在しているから、いつかはそんな経験をしたとしても不思議ではない。
まるで雨宿りする人を歓迎するかのように玄関の鍵は開いていて、これで濡れずに済んだとほっとひと息ついているところに、悲惨な出来事の当時の姿のままの人々が現れ、恨みの言葉をうわごとのように口にするのだ。
そんな不快なことを経験をしないために、にわか雨の降りそうな日には家を出る前に折り畳み傘などをバッグに収納する必要がある。それにはまず毎朝天気予報をチェックする必要があるが、つい見逃しがちな人はつねに外出用バッグに折り畳み傘を常備するのもいいだろう。
とはいえ、その日のファッションや用事に合わせて様々なバッグを使い分けたり、そもそもバッグが嫌いで毎日手ぶらで外出する人もいるかもしれない。そうしたケースについては、私の考えた対策ではお手上げだ。はっきりと用途のわかる建物(デパートとか公民館とか)以外には、たとえ急な雨のときもけっして飛び込まないという各自の心構えが重要になってくるだろう。
幽霊屋敷は、外見はごく普通の民家のように見える場合が多いような気がする。そこで悲惨な事件が起きるためには、まず普通に人々が生活している状態がなければならないからだ。最初から荒れ果てた恐ろしいムードの家になど、誰も住もうと思ったりはしない。人が住まないことには、悲惨な事件など起こりようがないのである。
だから今にも一家の団欒の声が聞こえてきそうな平凡な民家こそ、逆に幽霊屋敷の有力候補なのだ。
住宅街などを歩けばそんな家はありふれていて、雨が降りだしたらどこへ飛び込んでも無駄だという絶望的な気分になってしまう。
血まみれの親子にぶつぶつと恨み言を話しかけられるくらいなら、土砂降りの雨で下着までびしょ濡れになる方がまだましではないだろうか?

2019/06/08

通りからそのビルを見上げると、私はいつもなぜか西瓜のことが頭に浮かんだ。
緑や黒、赤など西瓜を思わせるカラーが建物にちりばめられているわけではない。そのビルの外壁は全体がうすむらさき色なのだ。
にもかかわらず、季節を問わず私はそのビルの前を通るたび西瓜を思い浮かべた。とくに食欲を刺激されるわけでもなく、ただ映像だけが頭をよぎるのである。
今さらながらそのことに疑問を感じ、私は今日初めてビルに足を踏み入れてみた。
外観からは複数の事務所が間借りしている建物に思えたが、どうやら半分以上は賃貸住宅のようだ。エントランスの集合ポストを眺めながら「空き部屋が多いようだな」と私はつぶやいた。
居住者の名前が表示されたポストは半分もないようだった。しかもそのどの名前欄にも「西瓜」とだけ書かれているのである。
「なるほど。こんな珍しい名字の人がひとつの建物に集まってしまうなんて、ほとんどテレビのニュースで取り上げられるレベルの奇跡に近い出来事に思える。そんな天文学的な確率の状態を叩きだしたこのビルが、無関係な私の頭の中にまで『西瓜』のイメージを送り込んだことはなんとなく納得できる話だ。もちろん、そのメカニズムを科学的に説明することは不可能だが……」
そのときエレベーターが到着して、住人らしきサングラスをかけた女の人が降りてくるのが見えた。
その人は「西瓜」と表示されたポストのひとつの中身を手慣れた様子で確認すると、訝しげにこちらをちらっと見てから颯爽とビルの外へと消えていった。
その最新流行のアイテムを取り入れた服装は特に西瓜柄などはあしらわれていなかったものの、夏らしいさわやかな雰囲気に西瓜と共通するものが感じられた。
名は体を表すというが、やはり名前はどこかしらその人のファッションなどに影響を与えるのかもしれない。そんなことに気づくことができただけでも、わざわざ見知らぬビルの中に足を運んだ価値はあったと思えたのだった。

2019/06/07

どこか甘美なムードの漂う音楽が、頭上の部屋から聞こえてくるようだった。
だが真上の部屋はもう何年も前から空き部屋であり、住人はいないはずだ。ということは聞こえている音楽は私の幻聴であり、このアパートに住む他の住人達には聞こえていないのだろう。
そう思うと私はなんだか自分だけ得をしているような気分になり、つい口元が緩んでしまう。正直な話、一人で聞いているのはもったいないと思えるほどそれは私の心に甘美な感情を芽生えさせ、たちまち育ててしまう力を持つ音楽だったからだ。
せめてこの音楽を記憶しておいて、誰か人と会う機会があったときに鼻歌などで再現してみせたほうがいいのでは? 私はそう思って、じっと耳を澄ませて音楽に聞き入った。というのも、私は楽譜が書けないし演奏できる楽器もなかった。ただ記憶してハミングしてみせる以外にこの曲を届ける方法は見当たらないのだ。
「すっかりこのメロディーを覚えることができたら、最初に誰に聞かせようか? 音楽が好きでさまざまなライブに出かけているという評判のヨシオくんがいいかな。それとも高校時代軽音楽部で、小太鼓を叩いていたという噂のミツコちゃんに聞かせるべきだろうか」
我慢できずにそんな空想を始めてしまった。そのため音楽に耳を傾けることがおろそかになり、私は曲の大部分を聞き漏らしてしまったようだ。
あわててふたたび集中しようとしたが、なぜかラジオの電源を切ったかのように音楽は止まってしまっていた。今ではそれは「どこか甘美なムードの漂う音楽」という安っぽい言葉としてしか頭の中に残っていなかった。
だがそんなフレーズがふさわしい音楽など、この世には腐るほど存在する。人が音楽に求めている最大のものは甘美なムードであり、体を芯から溶かすようなリズムとメロディーさえあれば、数日間くらい水や食糧がなくても人は暮らしてゆけるはずである。

2019/06/06

玄関のチャイムが鳴ると「何かの集金に来た人物が鳴らしたのでは?」と疑ってしまい、うかつにドアを開けるわけにいかないと思えてしまう。
もちろん、来客と云えば集金のたぐいだと決まっているわけではなく、単に気の合う仲間たちが美味しいワインやチーズなどを持ち寄ってわが家を訪れ、ちょっとしたパーティーを開こうとしているだけなのかもしれない。
それなら事前に連絡がありそうなものだが、何の前触れもなく突然来訪してびっくりさせてやれ、といういたずら心を起こした可能性も十分ありうるのだ、
だとすれば居留守を使ってじっと耳を澄ませ、玄関先の人物が立ち去るのを待つという行為は、せっかくの友人たちのアイデアを無下にするものだと云わざるを得ない。そんな友達甲斐のないことはしたくないのだが、うっかり開けたドアの外に見知らぬ人間が立っていて、慇懃な態度で私の今月の生活費を遥かに上回る金額を告げてくることを思うとパーティー気分は吹き飛んでしまい、ひたすら暗い表情で息を殺していることしか私にできることはなくなるのだ。
今日はそのようにして息をひそめているうちにいつのまにか眠ってしまい、気がつくと部屋はすっかり暗くなっていた。
だが、パーティーを始めるにはむしろ暗くなってからのほうがふさわしいのではないか? 暗くなってから集金の人間が訪れたとしても、それは実際には集金の人間に仮装した友人で、パーティーを開催するためにやって来てワインとチーズを隠し持っているのだ。
そう思うと私は安心してさっそく酒を飲み始めた。どのみち泥酔してしまえば、集金人も友人もただ人間というだけでいっさい区別などつかないのである。

2019/06/05

川沿いの遊歩道を歩いていたら、サラリーマン時代の上司にばったりと再会した。
二十数年ぶりの再会だというのに、彼の外見は上司だった頃ととくに変わっていないように見受けられた。当時の役職は課長だったはずだが、今の彼がとても部長や重役、ましてや社長になっているようには見えない。おそらく現在も課長のままに違いない、と私は心の中で思った。
元上司と私は、しばらく遊歩道を肩を並べて歩いていった。
べつに話すことも思いつかないため、無言で歩く二人の足音のむこうに川の流れる音が聞こえていた。
二十年以上経ってしまうと当時の記憶は曖昧になっているし、その後はまったく接点もなかったからごくありきたりなこと(今日の天気や気温など)以外に話題もないのだ。うっかり「今も課長のままですよね? 課長さんと呼んでいいですか?」などと訊ねたら、相手を怒らせてしまわないともかぎらない。そうなってはせっかくの再会が台無しになってしまうだろう。
ちょうどそこへ一匹の奇妙な動物が現れ、我々の前をまるで先導するように歩き始めたので、私は早速そのことを話題にした。
「なんでしょうねあの動物は。トカゲに似ている気がしますが、それにしては体が大きいし……」
だが元上司にはその生物の姿が見えないのか、私の言葉に首をかしげて視線をふらふらとさまよわせるばかりだった。
「ほら、すぐそこですよ。まるで散歩中の犬みたいな足取りで歩いているでしょう」
そう云って指さしても、元上司は悲しそうに首を横に振って私の方を見るだけだった。
私は諦めて、一人でその謎の動物の姿をじっと眺めた。
これだけはっきりと見えているのだから、幻覚の類でないことは明らかなのだ。それが見えないということは、私と元上司との間によこたわる二十数年という歳月が、こうして肩を並べて歩いている間もけっして埋まりはしないということを物語っているようだった。
だんだん私も悲しくなってきて、何か話さなければという気持ちがこみ上げてきた。
「課長、本当にお変わりになりませんよねえ。まるで蝋人形みたいですよ」
私は思わずそう口に出してから、はっとして元上司のほうを見た。
彼は前方を見据えたまま無言で歩いており、私の言葉はまったく聞こえなかったかのように思える。
だが、その目はあきらかに灰色に澱んでいた。まるで台風の後の川のような色だ。

2019/06/04

人は見かけによらない、という話を聞いたことがある。たしかに、猿のような顔をした人が猿に近い原始的な人物だとはかぎらない。私の知っている猿にそっくりな男性は、実際はとても知的でいつも読書をしており、度の強い眼鏡をかけて大変勉強好きなことも伝わってくる。
にもかかわらず、顔はまだ人類に進化する前の状態を思わせるので、思わず手に持ったリンゴやバナナなどを渡したくなってしまう。
だが差し出された果物を見ても、その男性は困惑するばかりだ。暇さえあれば本を読んでいるようなインテリだから、リンゴやバナナなどにはとくに興味はないのだ。
だが果物を差し出す側は好意でそうしているので、拒まれると気を悪くしてしまう。それが思わぬトラブルに発展する可能性もあり、顔は猿だが実際には知的な彼はそんな気配をすばやく察知して機転を利かせ、ちょっと猿っぽいしぐさをアドリブで演じながらそれらの果物を受け取ってみせることになるのだ。
するとたちまち「猿人間がバナナを喜んで受け取ったぞ!」という評判が広まり、果物を手にした人々がぞろぞろと集まってくる。
みんな毎日が退屈でたまらず、何か珍しい刺激がないかと周囲を見渡しながら待ち構えていたのだ。
この場合は群衆にすっかり囲まれてしまう前にその場を逃げ出すに限る。食いたくもない果物を山のように受け取ることに時間を取られ、読書の時間が削られてしまってはたまったものではないからだ。
本を読む時間が減少し、生活から活字が失われていけば彼は自然に猿へと退化し始めてしまう。
それは別段、彼が猿にそっくりな容貌であることとは関係がない。人間はもともと全員猿だったのであり、猿に戻ることは汗で化粧が落ちるようにたやすいのである。

2019/06/03

毎朝目を覚ますとまずテレビを点け、順番にすべてのチャンネルを表示させた画面を凝視。「まだオリンピックが始っていないかどうか?」を確認することが私の日課になっていた。
もちろんタイミングが悪くて中継中のチャンネルを素通りする可能性はあるので、 新聞やネットの情報に目を通すことも怠るわけにいかない。
ネット情報によればどうやら開催は来年のようだからひとまず安心だが、 ネットにはさまざまなデマやフェイクニュースが溢れているとも聞くので、けっして油断することはできない。
誰か人に会うときは、さりげなくオリンピックの話題を持ちかけて相手の反応を見るのも大事なことだ。もし開催中なら最新の競技の結果などが湯水のように興奮気味の相手の口から溢れてくるだろう。
今日は近所に住む知人の鈴木さんにバッタリ会い、さっそくオリンピックのことを話題に忍び込ませてみた。
するとにわかに鈴木さんの表情が曇り、明らかに敵意のこもった目で私を睨みつけてきた。
「前に云いませんでしたかね? 私はオリンピック反対派なんですよ……」
そうぽつりと鈴木さんが漏らすのを聞いて私はすっかり動揺してしまった。
この世にオリンピックという何よりも素晴らしい、国民への贈り物のようなイベントがあることに反対の人がいるとは、まったく想定していなかったのだ。
もしかしたら鈴木さんはオリンピックに個人的に嫌な思い出があり、そのことがトラウマになっているのではないだろうか?
かつて何らかのオリンピックに出場を果たしたものの惜しくもメダルを逃し、そのことで世の中から心無い非難や中傷を大量に浴びて、非常に深く傷ついてしまったかもしれない。
この国の人々にはたしかに努力するアスリートへの尊敬の気持ちが足りず、単に自分の願望を投影して盛り上がるための道具として見ているようなところがある。個人の確立が遅れた、昆虫や鳥の群れのような野蛮な国民性がいまだに大手を振っている点については、率直に認め反省しなければならないだろう。
そんな身勝手な国民を代表して鈴木さんに丁寧にお詫びの言葉を述べたところ、鈴木さんの険しかった表情がほんの少しだけ緩んだような気がした。

2019/06/02

夜になると私は、行きつけのスナックにひさしぶりに顔を出してみようという気になった。
そこで信号を渡って、道の反対側にある建物へと近づいてみたところ、どうやらスナックは最近閉店してしまったらしく、ドアにそんな内容の貼り紙が貼りつけてあった。
そういえばいつも店内は非常に空いていて、他の客がいたかどうかさえぼんやりとしか思い出せなかった。いたとしても店の隅のほうに小さくなって飲んでいるような陰気な客ばかりで、せっかくカラオケも完備されているのに店内は盛り上がりに欠け、新しい客も寄りつかなかったのだろう。
場合によっては店内にマスターや従業員の姿もなく、ただ薄暗い照明の下で何時間もぼんやり座っていた挙句、そのまま店を出たこともあった。
それはまるで無人の幽霊スナックのようなものがなぜか近所に出現し、自分がそこに迷い込んだかのような貴重な体験だったように思う。
この店にもっと陽気で金払いのいい客がたくさん訪れていれば、閉店などせずマスターや従業員たちも路頭に迷うことはなかっただろう。
だが陽気な客は陽気な店に自然と集まるものだから、陰気な客ばかり呼び寄せたこのスナックはマスターや従業員たちの性格もまた陰気であり、「類は友を呼ぶ」という古いことわざの正しさが証明されただけかもしれない。
とはいえ、考えてみればもともと陰気だったスナックが経営不振で閉店したところで、単に同じように静まり返っているだけで変化などないのだ。
むしろ無口な人間が一箇所に集まっている気づまりな状態より、誰もいないほうがずっと気が楽で思いきり羽が伸ばせる快適空間のような気がする。
店内に人っ子一人見かけず、呼吸音さえしないのにもかかわらず望みの酒とつまみが素早く用意され、頼んでもいないのに歌いたい曲のカラオケが次々とセットされるスナック。
現在もっとも人が求めているのは、案外そんな店なのかもしれない。閉店したスナックはそんな理想の空間へと最接近した場所なのである。

2019/06/01

昼頃郵便物を出すためにポストのある場所へ行くと、ポストがなくてかわりに貧相な顔の女が煙草を吸いながら立っていた。
「あ、郵便ですか? すみませんポストが今修理中なんでかわりに私が預かっておきますね」
そう早口に云って手を差し出した女は、郵便局員らしい制服も着ていないし身分を示す名札のようなものも見当たらなかった。
「責任もってお届けしますから安心してください」
そう云いながら女は私の手から封筒をひったくろうとしたので、私は驚いて悲鳴を上げた。
「何をするんだ!」
「お預かりしますよ」
「身分証を示せ!」
「そんなものありませんよ」
「じゃあ預けるのは嫌だ、別のポストに投函する!」
「どのポストでも同じですってば」
私はようやく封筒を女から奪い返すと、ぶつぶつ文句を云いながら早足でその場を離れた。幸い女は後を追ってくることはなく、ポストのあった場所にじっと佇んだまま恨めしそうにこちらを見ている。
「たしか川沿いのT字路のところにもう一つポストがあったはずだ……」
ちょっとした外出で済むはずの投函に手間取り、時間を取られていることに苛立ちながら私は川沿いの道を歩いていった。
やがてT字路が近づくと私は自分の目を疑った。
ポストがあるはずの場所にやはりポストが見当たらず、かわりに小柄で小太りな女が手持無沙汰な様子で立っていたのだ。
「あっどうも、郵便ですよね? 現在ポストが修理中なのでかわりに私が預かっておきますから」
女がそう云ってひょいと両手を差し出した。
私は郵便物をその女に預けて「じゃあよろしく」と片手をさっと上げるとその場を去っていった。
先程の女と違って、この女はなんとなく信頼できる気がしたのである。