2019/06/22

自宅からさほど離れていないことは知りつつ、一度も訪れたことのない公園があった。
ほんの気まぐれから「あの公園で一時間ほど過ごしてみよう」と思い立った私は自転車に跨り、約五分ほどで公園の前に到着した。
噂に聞く通り、緑が多く木陰が豊富なうえにベンチが点在しており、この規模の公園としては十分合格点を出したいところだった。
だが、いざベンチに腰掛けようと思うといったいどのベンチを選ぶべきか迷ってしまう。
もっとも涼しげな広い木陰のベンチには、すでに先客がいるようだ。可愛らしいプードルを連れた老婦人が、いかにも散歩の途中のちょっとした休憩という様子で腰かけている。
おそらく、それほど長居するつもりはなく、まもなく席を立つことだろう。
それを待つのもいいが、いかにも手持無沙汰に立ったまま老婦人を凝視しているのは、なんとなく気が進まなかった。だがべつのベンチにひとまず腰を下ろして、老婦人が席を立ったら移動するというのも「ベンチでひたすらぼんやりと一時間ほど過ごし、帰宅する」という当初の計画を裏切るようで引っ掛かりを覚えるのだ。
「今すぐあの老婦人にベンチを譲ってもらえるよう、交渉しようか? 聡明そうなご婦人だから咄嗟にこちらの意を汲んでくれそうな気がする。私のことを決して、無理難題をふっかけてくる変人という目で見ることはないはず。それとも二人掛けるのに十分な幅はあるのだし、少しベンチの端に寄ってもらうことで相席をお願いし、世間話などをしたのちに老婦人が立ち去った後で、あらためて一人でぼんやりとした時間を過ごせばいいのかもしれない」
そんなことを考えながら自然に足が動いて、いつのまにか私は老婦人のいるベンチの前に立っていた。
いきなり目の前に無言で佇むという不躾な行為に及んだ私に対し、老婦人は特に迷惑そうにふるまうでもなくにこやかにこちらを見上げていた。
「おそらくあなたの目には、私は可愛い小動物を連れた上品そうな老人と映っていることでしょう。けれど実際にはこのプードルは死んだプードルの剥製に過ぎないし、私はこの町でも札付きの徘徊老人で、他の入居者を三人も殺害したほどの凶暴さのために施設を追い出され、こうして野に放たれた状態にある危険人物なのです。それ以上接近することはあなたの身の安全を保証しません。人間という肉体的には脆弱な生物が地上の王になっている意味を考えてみれば、外見で人物の危険度を測ることの危うさがお分かりになるでしょう」
老婦人の声はいかにも品のいい話し方とは裏腹に、そんな物騒な内容を伝えてきた。
私は驚いてプードルの顔を凝視した。声は婦人ではなくその可愛らしい犬から聞こえてきたのである。
だがたった今聞いた言葉通り、プードルは地面に座ったままぴくりとも動かない。おそらく剥製の小犬の体のどこかにスピーカーが内蔵され、そこから声が漏れ聞こえてきたのだろう。
だとすれば、その声はあらかじめテープなどに録音されたものなのだろうか? それとも近傍のどこかに声の主が身を隠していて、そこから様子を窺いつつリアルタイムでマイクに向かって言葉を発しているのだろうか。
それを確かめるべく、私はプードルに向かって「お名前は何というのですか?」と質問してみた。
すると間髪入れず、
「マルガリータ」
そう答えが返ってきたのである。
だが私は「犬に向かって敬語で話しかけた」ことがなんとも恥ずかしくなり、思わず赤面してしまった。
それにこの場合名前というのははたしてプードルの名前なのか、それとも老婦人の名前なのかが判然としなかった。
どちらの名前であってもおかしくないと、私には思えてならないのだが。