2019/10/25

すごいスピードで路地を通り抜けていく車がいた。車には誰も乗っていなかった。
「あれが噂の自動運転というやつか」
私は感心してそうつぶやいたのだが、ちょうどいいタイミングで向こうから歩いてきた男に即座に否定された。
「たまたま運転手の顔や着ている洋服の色が、座席と同じ色だっただけですよ。つまり保護色というやつです」
それから私と男は近くの公園のベンチに座り、この国における自動運転の未来について語り合った。
だが二人とも自動車免許を持ち合わせていないせいか、あまり実りのある対話はできなかったように思う。
失意のうちに私たちは公園の出口で別れ、それぞれの家路についた。
今では相手の顔も覚えていないのである。

2019/10/14

煙草をやめたのでかわりに口に入れるものが欲しい、と佐藤さんは云っていた。佐藤さんとは初対面だったので、彼の真意ははかりかねた。
私に「何か煙草がわりに口にできるものを提供せよ」と暗に要求しているのだろうか? そんな要求にこたえる義務はないのだが、どんなときでも人の期待を裏切らない有能な人物でありたいのも事実だ。だがそのへんに落ちている石ころを拾って「これでも口に入れてみては?」と提案しても、佐藤さんはあまり喜ばないような気がする。彼の服装や髪形などから推察するに、人目を気にする見栄っ張りなタイプであるような気がしたのだ。
そんなタイプの男性は、地面に落ちている石ころを口に入れることを躊躇する傾向がある。もちろん昆虫などはもっと抵抗を覚えるのではないか。
「カナブンを口に入れると勝手に動き回るので、煙草なんかよりずっと楽しめるし経済的で、ニコチンも含まれないから健康にもいいですよ」
そんなアドバイスをしたいという欲求が湧き起こったのだが、もちろん経済的な利点はともかく、煙草のかわりにカナブンを口にくわえるのが「健康にいい」というエビデンスは存在しない。それを実践した人がいまだ確認できていない以上、安全性を保障するデータは当然世の中に見当たらず、そんないかがわしい「カナブンを口にくわえること」を無責任に勧めるのは倫理的に許されることではないのだ。
もっとも、どれほど信用するに足るデータを揃えたところで、佐藤さんが最近の都会っ子に多い「虫嫌い」の男性だったらすべては無駄に終わるのだ。そんな危険な賭けに打って出るような気持ちは今のところ私にもなかった。それだけの情熱を傾けるべき相手なのかどうかは、今後の佐藤さんとのつきあいの中で判断していくしかないだろう。
とはいえ、佐藤さんとこれからも何らかの温かみのある交流を続けていくことが決まったわけではなく、こうしてじっと真意を探るべく覗き込む彼の目が無情にも何度も逸らされ、そのたびにせっせと正面に回ってふたたび覗き込まなければならない現状を鑑みるに、その可能性は極めて低いと云えるのかもしれない。
だが私は佐藤さんが禁煙を続けることには健康上の理由から賛成だ。せめてそのことだけは伝えたいと思い、私は彼の伏せられた目の奥へと必死にテレパシーのようなものを送り続けた。

2019/10/11

なんとなく、電車に乗ることが最適解のような気がした。そこで私はひさしぶりに駅に向かったのだが、駅というのはどうしてあんなに人が大勢いるのだろう? まったく馬鹿げた騒ぎっぷりで、もっとみんなが思い思いの方角に向かって自由に歩いてゆき、人口が分散したなら今より住みやすい社会になるように思えてならなかった。
そこで手近なところにいた若い女性にその旨を述べたところ、思いのほか強い同意を得られ、
「私はもう窮屈な電車に押し込められて目的地に向かうのをやめ、自由に気の向くままに歩いてゆきます!」
そう叫ぶと彼女は駅舎を飛び出して、とくに何もないほうの北口の路地へと消えていった。
だが北口の道路をしばらく歩いていけば、巨大な霊園に突き当たることは間違いないのだ。
「昼間でも不気味な雰囲気の漂う霊園に迷い込むくらいなら、たとえ混雑していて不快でも電車に乗ったほうが数倍マシだろう」
私はすぐさまそう判断したのだが、残念なことに私の声はすでに姿の見えない女性には届かなかったようだ。
だが若いうちは少々のあやまちも含めて、おおいに冒険して経験を深めるのがいいだろう。その結果として、軌道修正してごく保守的なつまらない人格に収まってしまうのだとしても、心の中にかつての冒険者である自分を持っているかどうかで、人間の価値はまるで違ったものになるはずだ。
そのような真の価値の見分けがつく人物との出会いもまた、人生の醍醐味のひとつなのである。
もちろん、墓場で道に迷って行き倒れてしまってはそんな出会いの機会は望むべくもない。
私は、今では顔も思い出せない若い女性の無事を祈らずにはいられなかった。

2019/10/02

変なところから手が出ていたので、どうしようかと思ったが、握手をする気にもなれなかった。
なのでそのまま見守ることにしたのである。
云い忘れたが、手は私の住むアパートの床下を外から覗ける穴があるでしょう? あそこから出ていたのだ。
死体ではない証拠に、時々ぶらぶらと動いてどうにも手持無沙汰な様子を見せた。
石でもぶつけてみようかと考えたが、それも気の毒だと思ってしばらく静観することにしたのだ。
二時間ほどが経過した。
あまりにも何の変化もないので、私はついうとうとしてしまったらしい。
はっとして顔を上げると、床下から出ていた手はどこにも見当たらなかった。
しゃがんで穴を覗いてみたが、暗くて奥のほうはまるでどうなっているのかわからない。
こんなことなら石をぶつけてみればよかった、と一度は思ったが、あわてて心の中で訂正した。
「こんなことならあの誰のものとも知れぬ手と、固い握手を交わしておけばよかった」
念のため、そう声にも出して云ってみたのだが、誰か聞いてくれた人はいただろうか?
自分を尊敬すべき紳士だと信じられなくなったら、それからの人生は手放したベビーカーが急な坂を下るようにひたすら落ちていく一方だ。
人生は意外と長いものだから、投げやりになるべきではないのである。
とはいえ、人生は長いと思って油断しているとあっという間に終了してしまうので、ある程度の投げやりさは必要かもしれない。
だが、短いつもりでいると思いのほか長いのが人生だ。
夕日がまだ沈まずに、私とアパートの壁を照らし続けている。