2019/10/14

煙草をやめたのでかわりに口に入れるものが欲しい、と佐藤さんは云っていた。佐藤さんとは初対面だったので、彼の真意ははかりかねた。
私に「何か煙草がわりに口にできるものを提供せよ」と暗に要求しているのだろうか? そんな要求にこたえる義務はないのだが、どんなときでも人の期待を裏切らない有能な人物でありたいのも事実だ。だがそのへんに落ちている石ころを拾って「これでも口に入れてみては?」と提案しても、佐藤さんはあまり喜ばないような気がする。彼の服装や髪形などから推察するに、人目を気にする見栄っ張りなタイプであるような気がしたのだ。
そんなタイプの男性は、地面に落ちている石ころを口に入れることを躊躇する傾向がある。もちろん昆虫などはもっと抵抗を覚えるのではないか。
「カナブンを口に入れると勝手に動き回るので、煙草なんかよりずっと楽しめるし経済的で、ニコチンも含まれないから健康にもいいですよ」
そんなアドバイスをしたいという欲求が湧き起こったのだが、もちろん経済的な利点はともかく、煙草のかわりにカナブンを口にくわえるのが「健康にいい」というエビデンスは存在しない。それを実践した人がいまだ確認できていない以上、安全性を保障するデータは当然世の中に見当たらず、そんないかがわしい「カナブンを口にくわえること」を無責任に勧めるのは倫理的に許されることではないのだ。
もっとも、どれほど信用するに足るデータを揃えたところで、佐藤さんが最近の都会っ子に多い「虫嫌い」の男性だったらすべては無駄に終わるのだ。そんな危険な賭けに打って出るような気持ちは今のところ私にもなかった。それだけの情熱を傾けるべき相手なのかどうかは、今後の佐藤さんとのつきあいの中で判断していくしかないだろう。
とはいえ、佐藤さんとこれからも何らかの温かみのある交流を続けていくことが決まったわけではなく、こうしてじっと真意を探るべく覗き込む彼の目が無情にも何度も逸らされ、そのたびにせっせと正面に回ってふたたび覗き込まなければならない現状を鑑みるに、その可能性は極めて低いと云えるのかもしれない。
だが私は佐藤さんが禁煙を続けることには健康上の理由から賛成だ。せめてそのことだけは伝えたいと思い、私は彼の伏せられた目の奥へと必死にテレパシーのようなものを送り続けた。