2019/06/21

人はみな、自分を生かす力に対して感謝の念をおぼえるとともに、感謝することへの屈辱に打ちのめされてもいる。
この矛盾した感情を、それぞれこの地上で身近に目につく別々のものに割り振り、それぞれに祝福と呪詛を使い分けることで引き裂かれた自分をどうにかまとめ上げていると云えるだろう。
祝福の対象と呪詛の対象に、実のところたいした違いはないのだ。極端なことを云えば、祝福したい気分のときに目についたものが祝福され、呪詛したい気分のときに目にしたものが呪詛される。それぞれに与えられる理由など後付けに過ぎない。われわれは生きていくうえで、祝福の歌と呪詛の歌を交互にうたわなくてはならない生き物なのだ。
まともな、つまり周囲からそれなりの敬意を払われるべき人間であれば、それぞれの歌を捧げる対象の選択にも手抜かりはないだろう。隣人たちと同じ対象へ同じ歌をうたう、少なくともそのふりをすることで、われわれはこの地上で自分の場所を得ていると云えるからだ。
また、今みずからがくちずさんでいるのが祝福の歌なのか呪詛の歌なのか、その点を曖昧にすることで後からいくらでも言い訳がきくようにするというのも一つの処世術だろう。
そもそも「歌」はその詞にせよ旋律にせよ、明確な意味を読み取れるようなものではない。その曖昧さに逃げ込んでどうにかやり過ごし、後になって一種の「答え合わせ」の時間を迎えたときに、まわりを見てうまく口裏を合わせる。案外そのようにして、たいていの人は「二つの歌」とうまくつきあっているのかもしれない。
もはや何のための「歌」なのか不明としか云いようがないが、それでもなお歌うことをやめられないのが人間であり、すべてはこの感じやすい猿たちにつまきまとうあらゆる「快」への屈辱がとらせる、その場しのぎの取り繕ったポーズなのではないだろうか。