2019/04/30

目覚める間際まで見ていた夢が、寝床の私にしばらく奇妙なポーズを取らせていた。
まるで巨大な本棚の奥に迷い込んで一冊の本に手をのばそうとしている姿、と云えばいいだろうか。その本棚は私の住んでいるアパートなどよりもよほど巨大なもので、しかも人間は本の隙間を遠慮がちに進むことしか許されておらず、自分が今本棚のどの位置にいるのかさえ把握しがたい有り様なのだ。
おそらく私が求めている書物は、この残酷なまでに人々に苦痛を強いる世界を根本的に改革するためのヒントを、はっとするような格言やひらめきを促すイラストの形で数多く提示しているものだ。そんな本があればいいなと日頃から心の片隅で思い続けているので、夢という格好の舞台がその本の印刷や製本を買って出たのだろう。
とはいえ、実際に手に取ってページを開いた場合、私の期待に応えるだけの内容がそこに書かれているとは思えない。私の脳がつくり出した書物である以上、私の思いつくこと以上の内容を印刷することは不可能だからだ。
そのため、私の幻滅を先送りしようとして本棚は複雑に迷路のように入り組み、せっかく出現した本は私に読まれまいとしてその迷路の奥へと逃げ込んでいくのだ。
目が覚めたのは、私の手を逃れることが限界に達した本を守るために、夢がすべてに乱暴に幕を引いたからだと思われる。
だが私は今でも心のどこかで、あの喉から手が出るほど欲している本の実在を信じているのかもしれない。もし実在していると仮定すれば、その本のすべてのページは人間の皮膚でつくられているはずだし、表紙には顔の部分の皮膚が使われているのは間違いないだろう。
材料になる皮膚は、その本を手に取って読もうとしている人自身の体から取られているのだ。

2019/04/29

窓の外を見ていたら、向かいのアパートの部屋の窓から満面の笑みを浮かべて手を振る男性がいた。
「ずいぶん馴れ馴れしい人だな」不快感をおぼえた私は手を振り返すことはなく、ただ無表情にじっとその人のことを凝視しつづけた。
すると男性は手を振るのをやめたものの、今度はギターを片手に窓辺に現れると、その場で弾き語りを始めたのだ。
だが男性のいる部屋の窓も、私の部屋の窓も閉まっているので歌声やギターの音色はここまで届かなかった。だからまるで審査員のように彼の演奏技術などにコメントすることはできないが、たとえ素晴らしい技術が発揮されていたとしてもプロとしてデビューするには何か決定的なものが欠けていると思わざるを得なかった。
それは外見が醜いとか、年を取り過ぎているといった誰にでもわかる問題だけでなく、その男性にはもっと無条件に人を苛立たせる雰囲気が天性のものとして備わっているように感じられた。
もし可能なら大規模なアンケート調査などを行えば、およそ八十パーセントほどの人が彼の姿を見て「不快である」という選択肢に○をつけるだろう。
それはもちろん意図されたものではなく、むしろ人を喜ばせたいという気持ちから窓辺での弾き語りが開始されたことは十分に理解できるのだ。だからこそ胸の痛む話ではあるし、私もできれば笑顔で男性の真心にあふれた歌声に耳を傾けたいところなのだ。それはアンケートで「不快である」に○をつけるほとんどの人に共通の気持ちだろう。同じ人間としてこの世界に生まれてきた相手を、不快だと感じてしまうほど悲しいことはない。その場合、不快さと悲しみという二重の罰を受けなければならない理不尽さにようやく耐えている人々のことを、人でなしのように罵ることは誰にもできないのではないか。
だがアンケートの結果はあくまで参考資料として男性の元へ届けておきたいと思った。プロデビューなど目指さす個人の趣味で歌っているのだとすれば、それは大きなお世話というべき振る舞いなのだが。

2019/04/28

外を歩いていたら急に雨が降ってきた。
だが私は傘を持っていないので、雨など降っていないかのようなふりをして歩き続けた。
すると前方から歩いてきた人が私を見て傘を閉じようとしたが、雨が降っていることに気づいてふたたび傘を差した。
すれ違うときその人は不安げなまなざしを私に向けた。私があまりにも「雨が降っていないときのような歩き方」を堂々と維持しているので、自分の見ている雨が幻覚ではないかと心配になっているのだと思われた。
だが私はその人を安心させるために「傘を持たずに外出して雨に降られてしまい、失敗したと思っている人の歩き方」へと変更する気にはなれなかった。
それは私に他人の心を思いやる精神が欠けている証拠なのかもしれない。雨に濡れることに動じないという強さに恵まれた者は、雨の中で傘をさすという当然のふるまいにさえ挙動不審になってしまうような繊細な者をいたわり、さまざまな配慮によってその精神に安らぎをもたらすように歩み寄ってあげるべきなのだろう。
人々が自分さえ良ければいいというエゴイズムを捨てて、とくに自分より脆く壊れやすい存在に対して思いやりを見せることで世界が温かな心地よさに包まれていくことは、二十一世紀を生きる私たちにもはや不可欠な常識なのだといえる。
だが私は雨の中で傘を所持していないという意味では「持たざる者」の側にいるのだから、その自らの弱さをむしろ「見せつけることによって隠す」という奇妙なふるまいに及ぶ自分に対して、何とも不可解な思いに囚われていたのも事実なのだ。
ここには私の人生を、いっこうに出口の見えてこない迷路のような場所に変えている根本原因が隠されているのかもしれない。
そんな気がした私は、突然踵を返してさきほどすれ違った人物を駆け足で追いかけると、いきなり背後からキックを浴びせて倒れたその哀れな犠牲者から傘を奪い取った。
他人の傘を差して颯爽とその場を立ち去る私に、戦場の銃弾のような雨がいつまでも降りそそいでいた。

2019/04/27

すべてを理解するためにはすべての本に目を通す必要がある。それができない以上、私たちの理解はつねに不完全で、むしろぽっかりとあいた穴の方が大きいものだ。その穴を空想で埋めることでどうにかこの世のことに最低限の知ったかぶりをして、何か意見を述べたり、抗議したりする権利があるというふるまいを続けているのかもしれない。
遠くの方を奇妙な形をした動物が歩いていくのが見えた。私はきっとあれは犬だろうと思って、犬を散歩させる人間が後に続くのを待った。だがいくら見つめてもそこに飼い主らしい人影はあらわれずじまいだった。つまりあの動物は単独で道を歩いていたのである。
こんなとき、私は困惑のあまり腕時計を眺めるふりをしたり(実際には腕時計などしていない)、携帯電話を取り出して通話のポーズをしたりしてしまう。困惑している姿そのものを人目にさらすことは、どこか魂を無防備に地面に転がしておくような不安があるものだ。それは漠然と他人の視線という意味でもあるし、もっと具体的な、たとえば遠くを単独で歩いていた奇妙な形の動物そのものの視線を恐れている可能性も、あるような気がしていた。
どんな習性を持つのか見当もつかない未知の生物が、自らの姿を目にして混乱している哺乳類(それは私だ)を見てどんな感想を抱くのか? そこに私は何の答えも用意できていないのである。
すべての書物に目を通したわけでもない私が言うべきことかはわからないが、おそらくその答えを持つ者はまだ人類に存在しないのではないか? そんな予感に囚われるとき、私は速やかにこの場を離れるべきだという野生の勘のようなものに突き動かされる。人類の歴史が蓄積した知恵のほんの一割にすらアクセスできないのが現状なら、こうした勘の働きで自動的に体が動いてしまうことこそ、非力な私にとっての救いなのかもしれない。
私は冷静さを装って、ちょっとした散歩を楽しむ人のような表情で歩き始めた。
そんな表情を保ち続けることができれば、いつしか心も表情に引きずられて本当に散歩を楽しみ始める場合がある。そんなところに、この過酷な世界で生きていくことのかすかな慰めがあるのだ。

2019/04/26

酒によって身を滅ぼす人は後を絶たないし、人生に決定的な傷を負うところまでいかないものの、飲酒のダメージの蓄積された体でさまざまな病気の入口に立っている人たちが無数に存在している。
多かれ少なかれ、寿命を削ってまで飲酒を続ける意味があるのかと問われて、大きな声でハキハキと「あります!」と答えられる人はさほど多くはないだろう。だが人生にともなう苦しみの数々は、自分を内側から殴り続けるような恍惚に身を委ねることなしに、とうてい耐えうるものではないのも確かなのだ。
だからこそ、アルコールのある場所ではドラマが生まれるのだし、その思い出がまた人をアルコールのある場所へと引き戻してしまう。まるで心の傷を体への傷で上書きするように、人はアルコールに身を沈めるのだとすれば、それは一種の自傷行為だということも可能だろう。自傷行為が死を遅延させるためのもので、死なないために行うものだという解釈をとるならば、飲酒もまた今すぐ線路に身を投げ出したくなる衝動を抑え、いわば自己破壊の衝動を分割払いしているような行為なのだ。
人生の長い旅路をたどるのに何らかの交通手段が必要だと考えれば、そこで支払われているのは電車賃やガソリン代のようなものだとも言えるかもしれない。同じ車両に乗り合わせた人たちと互いの旅の安全を祈る気持ちで、人々はグラスを合わせる。
そのときカチリと鳴ったグラスの音は「よい旅を」というあのお決まりの挨拶の言葉なのだ。

2019/04/25

自分が広大な、生きているうちは壁にたどりつくこともないような刑務所に収容されているのだと感じたり、そんな刑務所に囚われる理由となったような大昔の罪を抱えているのだと感じることが、誰にでもあると思う。
壁にたどりつかないほど広いなら、それは囚われていることにならないし、思い出せないほど古い罪はないのと同じことでは? という疑問が自分自身から湧いて出てきたとき、あなたなら何と答えるだろうか? 私はその答えを持たないままだが、何か視界がパッとひろがるような有効な答えがあるのなら、ぜひそれを聞いてみたいものだと思うのだ。
その答えを発表する会などを、トークイベントなども開催するタイプのカフェなどでひらくのも賛成だし、喋るより文章にするほうが得意なら、活字化して出版すればより多くの人の目に触れる可能性が生じるだろう。
だが出版不況とも言われる昨今だから、むしろ活字化されることで世の中から埋もれてしまうタイプの言説もあることを意識しておく必要がある。トークイベントの場で発表すれば、伝わる相手こそ少ないけれど、その分深く相手の心の奥に届けられるという利点があるのだ。その話を聞いた人間が、イベント後の人生の中でさまざまな人と出会い、語り合うときにその話の破片のようなものを世界に撒いていく……そんな空想が私の中で広がっていくのが感じられた。
そうして言葉は人から人へ伝えられ、やがてこの広大な刑務所の果てにある壁の前に立つ人のところまで届くかもしれない。
すると、もう伝えるべき相手がその先にいないことを悟ったその人が、壁にあなたの言葉の破片を書きつけることになる。
その瞬間が人類の歴史の範囲で訪れるかどうかは、私には何とも言えないところではあるのだが。

2019/04/24

どこかで犬が吠えているような気がした。もちろん、この世界のどこかでつねに犬は吠えているはずだが、たいていの犬は私と無関係に吠えているのだ。また、他人の家の前を通ったときいきなり犬が吠えたてた場合などは「まるでセンサー付きの警報機のように単純な獣らしい反応だな」と理解することができる。
だがそうではなく、どこか私の目の届かない場所から私個人にあてたメッセージのように吠えている犬の存在を、ふと感じたということだ。
そんな犬が実在しているという証拠を示すことはできないから、これは科学の進歩に背を向けた迷信家のたわごとにすぎないのかもしれない。今では世界のどこかで自分に向けて必死に、何らかのメッセージであるかのように吠えたてる犬の存在を信じることさえ難しい時代になってしまった。
そもそも犬と人間との間に生じているコミュニケーションは、厳密には互いの誤解の上に成立しているものだというのが現在の常識だろう。誤解が永遠に解けないことによって、まるで人類と犬は昔からの親友であるかのように過ごしてこれたのである。
それは覚めない夢の登場人物としてお互いを必要としあうという、理想的な恋愛関係のようなものかもしれない。そんな「夢の恋人」のような位置からメッセージを投げかけてくる犬の存在を、ありえないものとして否定することはたしかに進歩的な態度に違いないが、前に進むことが結局崖から真っ逆さまに転落する瞬間への接近を意味していないと、誰に言えるだろうか?
もちろん、犬が吠えていると信じる方角へ進むことで、ジャングルの奥地へ迷い込み永久に出られなくなる可能性もある。そのジャングルには野犬が異常なまでに繁殖しており、私は腹を空かせた彼らに大きめの肉の塊として遠くから招かれ続けていたのである。

2019/04/23

この世に何の意味もない人生を送る人間など存在しない、ということを口にしたがる人物は多いが、それぞれの人生の意味を懇切丁寧に指摘して回るような親切な人はけっして多くないのが現状だ。
だが人生の無意味さに絶望を感じている人たちに必要なのは、漠然とした十把一絡げの励ましなどではなく、個別の事情に寄り添った具体的な指摘ではないだろうか?
「あなたは鉄サビに似た独特の体臭を放っていることで、この世に存在する人類の体臭に特異なひとつのバリエーションを付け加えているのであり、あなたがいなくなると人類の体臭の貴重なサンプルが失われることになる」
そのような意見を伝えるべき人間が必要なのだ。これは十把一絡げの励ましとは違って、個別の人間に向き合う真摯な時間があればこそ可能になる対応である。とても無償のボランティアに任せるべきではなく、早急に職業として確立させることが望ましい。
意味のない人生など存在しないのは事実なのだ。ただし四コマ漫画のようなわかりやすい意味を持つ人生は稀であり、たいていの人生は非常に難解きわまりないもので読解に一週間以上かかると言われている。

2019/04/22

街はどことなく浮ついた、夢見るような空気に包まれていた。そのことが無性に腹立たしくなり、何らかの手段で冷や水を浴びせてやりたい、という気持ちが私の中に沸き起こる。
もっとも、それはべつに珍しいことではなく、世の中に対して斜に構えたところのあるインテリの諸君なら誰もが身に覚えのある感情だろう。
なぜ世の中を構成する大半の人々はあんなに簡単に、たとえば徒競走のスタート地点で鳴らされるような銃声を耳にしただけで一斉に走り出してしまうのか? まるで知能の低い鳥などの生物を思わせるその行動は、授業に真面目に出席して必要な教養を身につけてきた者からすれば興味深くすらある。
思わず動画を撮影して、同じような知的な人々の間でそれを鑑賞しながら紅茶を飲む会などを催したい気持ちになるが、そんな会の持つ差別的な性格に対して敏感であるべき教養人としては、やはり動画は即座に削除してもっと罪のない、たた空の雲を眺めてお茶を飲む会などに変更することを検討したいところだ。
雲には様々な形があり、それを観察するだけでいくらでも時間は潰せるのだという話を友人の「雲博士」の異名を持つ気象学者から聞いたことがある。
雲を見るにはただ窓の近くに歩み寄ったり、窓を開けて外に飛び出したりすればいいのだから、経済的に厳しい状況にある人々にも優しい娯楽が空から提供されているのだ。
もちろんこれは「雲博士」氏からの受け売りであり、私自身にそのような趣味があるわけではない。残念ながら私にとって、雲はただ白くて退屈なだけの物質だ。その証拠に、雲の動画を撮影してアップロードしても、人は決して人気者にはなれないのである。

2019/04/21

何か途方もないまぶしさをたたえた星が、空に浮かんでいるような気がした。見上げたら目が潰れてしまうほどの星。それは人類の未来に輝く希望の星である。未来を直視することは、我々の誰にも許されてはいないのだ。だから我々は、およその方角だけをその途轍もない光の一部を瞼や背中に浴びることで察して、けっしてそこへ瞳を向けないという慎重さによって未来を意識し続けるのである。
未来を直視した者がうしなうのは、その未来へと接近しやがて知らぬ間に通り過ぎてしまうという幻滅への権利である。この幻滅のくり返しこそが生なのだとしたら、未来の直視によってもたらされるのは死の前倒しだろう。
たとえば濃い色のサングラスをかけることで瞳を隠している者は、いっけんこの「死の前倒し」後の世界を模倣しているかに見えて、実は未来に輝く星の途方もないまぶしさを遠ざけることで「幻滅のくり返し」つまり生の引き延ばしをはかっていることになる。
サングラスによって守られた瞳は、あのすべてを焼き尽くす希望の光を見つめる姿を演出することができるが、そのとき瞳が見ているのはサングラスの黒さそのものなのだから、あまり心配はいらないのだということを知っておくべきなのだ。
ただしサングラスの機能には商品によって大いに差があって、過信することで目を傷めるようなケースも多く存在する。レンズ一枚によってもたらされる夜はおよそ脆いものであり、時々腕時計などを確認することで正しい現在時刻を意識することが大事なのだという話を付け加えておきたい。

2019/04/20

電車が動き出す前に発車ベルが鳴りわたるように、人生の始まりにもまた赤ん坊はベルのようにけたたましく泣き喚くのだろう。
つまり人間が泣くということは、それが人生で何度目かの発車ベルを鳴らしている時間だということを意味している。人生の旅の途中で駅に停車し、懐かしい誰かが降りていった後に、見知らぬ誰かが乗り込んでくる。そうした貴重な出会いと別れの交差を見届けるように、われわれの喉から漏れる発車ベルの音。それはまた新たな旅へと風景が動き出すことの合図なのだ。
悲しみの涙もあれば、喜びの涙もある。ライバルに負けた悔しさも、困難を克服した人の物語への感動も、私たちにひとつの停車駅を与えるだろう。それらがあってこそ充実するのが列車の旅であり、ただ出発地と目的地を一直線でつなぐだけでは味気なく、昆虫や魚類などの一生となんら変わらないものになってしまう。
私たちには少しでも多くの停車駅が必要なのだ。涙はいわば停車中の列車から降りてホームで購入する、ちょっとした飲み物や弁当のようなものだ。
もちろん、のんびり時間をかけて選び過ぎたために発車時刻に間に合わず、置き去りにされたホームで駅弁片手に呆然と立ち尽くすこともある。
そんなときは慌てず騒がず、次の列車を待つことが肝心だろう。
ホームのベンチにぽつんと座って食べる駅弁にも格別な味わいがあると言われている。人生には完璧な予定表など、本当は存在しないも同然なのだから。

2019/04/19

体育館のような所に集められたので、何かの集会が始まるのだろうか? と思ったが壇上をじっと見つめていてもそこにマイクが設置されたり、人が現れるような気配は感じ取れなかった。
「これは何かの集会なんですかね?」
近くに座り込んでいた子供のような顔つきの、よく見ると皺の多い中年男がそう話しかけてきた。
「そうなのかな、と思ったんですがどうやら違うみたいですね。全体に照明も暗いままだし」
そう私は答えてもう一度壇上に視線を向けたが、何かを準備している様子はやはり見られなかった。
そもそも私たちをここに誘導してきたはずの背広姿の男たちもまた、今ではジャージ姿でその辺りに座ってすっかりくつろいでいる。
「ここにみんなを誘導したら背広脱いでいいから、後は適当に待機しててって言われたんで」
まわりの者に質問攻めにされた彼らは、面倒くさそうにそう答えたのだ。
だから体育館の床に座って事情もわからぬままぼーっとしているこの十数名のほかに、何かを説明できる人間はここに存在していないのだ。
じつに不安な状態だし、見方を変えればスリリングな手に汗を握るシチュエーションに置かれていることを楽しめるのかもしれない。
この体育館がじつは宇宙船のようなもので、われわれは地球外の生物に騙されて誘拐され、これから一生を実験動物として過ごすのでは?
そんな空想をうっかり口に出したところ、周囲の人たちの耳に入ってにわかにざわつき始めた。
「おれは実験動物になるのなんて嫌だぞ! いったい宇宙人の人権意識は どうなってるんだ!?」
子供のような顔つきの中年男がそう叫ぶと、いきなり出口に向かってダッシュしていった。
つられてジャージの男たちもダッシュし、他の人たちも次々と立ち上がるのを見て私もあわてて腰を浮かせた。
だが少し考えてふたたび床に腰を下ろすと、そのまま全員が館外に姿を消すのを見守ったのだ。
まだ実験動物になると決まったわけではない。もしかしたら未知の惑星で来賓として大変な歓迎を受け、豪華な食事やホテルなどが提供される可能性があることに気づいたからだ。
私はじっと腕組みしたまま、遥かな出発(たびだち)のときが来るのを待ち続けた。

2019/04/18

目の前で肉を食べている人がいた。
「何の肉なんでしょうね、これは」
私は独り言を言った。
目の前の人は無言のまま肉を食べ続けていた。
「私はもうどれくらい肉を食べていないのだろう?」
私の独り言は続いたが、目の前の人の食事の勢いは止まらないようだった。
「肉を食べる人は、食べない人と較べて確実に寿命が短いという話ですけどね……」
私が少し語気を強めて言うと、目の前の人は一瞬肉を食べる動きを止めた。
だが、すぐにまた今まで通り肉を口に運び始めたのである。
皿の上に山のように……文字通り死体の山だ……積まれていた肉は、すでにあらかたその人物の胃の中へと消えてしまったようだ。
もちろん、肉を食べる人間を何か残酷なことをしているような目で眺めたり、非難がましく睨みつけるのは何らかの差別に加担する行為として慎まなければならない。
たとえ食されているのが人肉であったとしても、食肉化した当人との間に合意が認められる限り、それを第三者がとやかく言うべきではないのだ。むろん、事前に同意書などを作成してそこに何ら暴力的な不均衡が生じていないことを、世の中に証明する義務があるのだが。
そして目の前で今すべての食事を終えた人が胃袋に収めたのが人肉だったことは、最後のほうで皿の上に見かけた部位の形状などから明らかだ。
私はそれを批判する気などまったくないし、あらぬ誤解をされないよう表情や視線などには十分気を付けたつもりだ。
ただ正直なところ、さっきまで刺激されていた食欲は今では跡形もなく消え去っていた。
私は差別的な心の持ち主なのだろうか?

2019/04/17

鬼ごっこをしている子供を最近すっかり見かけなくなった気がする。
やはり近頃は少子化が叫ばれる世の中のせいか、子供じたいがあまり外を出歩いておらず、老人や犬、猫といったおよそ子供と見間違うこともないようなものばかりが道を大手を振って歩いていることに気づかされる。
それは社会としてはまったく不健全な状態であり、今すぐ老人や犬、猫などを同じ数の子供と入れ替えていかなければ、世界はますます疲弊して意味もなく悲しい気分や鳥肌が立つような不安の中で、廃屋のように朽ち果ててしまうのではないだろうか。
そのためには政府が少子化対策に重い腰を上げ、この社会を子供だらけの巨大な幼稚園のようなものに変えるべく何か非常に効果的なアイデアを実行しなければなるまい。
具体的には、地域ごとに設けられた専用の窓口に老人や犬、猫などを連れていくと、その場で同じ数の子供と無料で交換してくれるというシステムがあれば、すべてが解決するような気がする。
こうして我々の身の回りがいつのまにか子供たちの姿でいっぱいになり、活気にあふれていくに従って、入れ替わりに老人や犬、猫たちが姿を消したことへの寂しさもすぐに忘れられるだろう。
どうしても忘れられないときはアルバムのページをめくれば、そこで老人や犬、猫たちのなつかしい姿といつでも再会することができる。
カメラを向けられるタイミングにより、被写体はじつに様々な表情を見せるものだ。
それは多くの場合、記憶にある表情そのものよりずっと魅力的である。

2019/04/16

候補者の名前を連呼する車が近所を通り過ぎるたび、私もまた同じ名前を叫びながら家を飛び出して、選挙カーの後を追いかけたくなる衝動を抑えることができない。
この社会をより良いものにするために身を捧げる仕事を「私がやります!」と自ら名乗り出る人々が世の中からいっこうに尽きる気配がないのは、なんと素晴らしいことだろう? スピーカーからの演説に耳を傾けたり、ポスターの文字を眺めているとどの候補者も「この社会が人々の笑顔であふれた幸せな空間になるように全力を尽くしたくてたまらない」という思いで頭が一杯だということが一瞬で伝わってくる。
こんなに情熱を隠し切れない候補者たちからとても一人に絞ることなど不可能だし、思い切って全員当選にして力を合わせて素晴らしい世の中をつくってもらってはどうか? という内容の文面を何度も選挙管理委員会に投書したが、いまだに返事がこないままだ。きっと投票箱の中身を数える仕事が消滅して無職になるのを恐れた彼らに、私の案は握りつぶされているのだろう。世の中が素晴らしくなっていくことよりも自分の当面の生活の方が大事だ、というエゴイズムがそこには透けて見えると言わざるを得ない。
だが、百人のうち九十九人が幸せになれるなら、残りの一人は失業して路頭に迷っても構わないのか? けっしてそんなことはないのだというのが21世紀の人類が出した結論なのだ。
そこで投票箱など必要のない「立候補すれば誰もが当選する社会」が実現すれば、そんな気の毒な失業者たちも一人残らず議員として世の中のために尽くすことが可能だと断言できる。
街角でより多く名前を連呼した者だけが議員になるという不平等なシステムは、いまや完全に時代遅れだということを知るべきなのだ。そんな過酷な競争を勝ち抜いて権力を手にした者に、蚊の鳴くような小声でうめくことしか能のない弱者の気持ちなど、絶対にわかるはずがないのだから。

2019/04/15

この世に搾取と不平等がのさばらなかった時代などおそらく一瞬も存在しなかったことについて、私は「なぜだろうか?」と日々の営みの隙間で必死に考え続けた。
もしも人間の本性が救いがたく強欲なものであるため、他者からの搾取が止められないならそれはそれで十分絶望的な話だ。
だが、実際にはさらに事態は深刻というか、根深いものなのではないだろうか?
つまり人間は周囲の他者たちからの搾取によって初めて、自ら「人間」を名乗る最低限の権利さえ手に入れているのだとすれば? その場合みんなが平等に「普通の人間」として扱われるという状態など、完全に夢物語だという話になる。
もちろん特定の他者からの搾取を反省して停止することを決意し、「あなたたちとは今後は平等な関係を築き上げます」という話なら十分可能だ。
ただし、そのときこの正義以外の何物でもない契約を交わす両者は、ともに別の声なき他者を搾取することについて、暗黙の合意をしているのだ。
この共同の「搾取対象」の名前が人々の間で口にされることは一切ない。むしろ口にすべき名前などいまだ持たないことで、その対象たちは悲惨な搾取に甘んじるしかない立場に追い込まれていると言えるのだろう。
そんな地獄のような世界がこれまで延々と続いてきて、その歴史からの出口がいまだ一度も見えたことがないのだと思うと、昼間であってもついアルコールに手が伸びてしまうのは無理からぬことだ。
おそらくそれは、人類がすべて地を這うほどに泥酔して前後左右もわからなくなっている状態にしか、搾取のない平等な世界は存在しえないということを、我々が本能的に知っているからではないだろうか。
その世界は健康面から見れば暗黒のディストピアでしかないが、アルコールの底で体を壊して死に絶えるまでの間、我々は絶対に手に入らないと思えた精神的な理想世界を、つかの間生きることになるのだということを、うっすらと気づき始めているのかもしれない。

2019/04/14

朝早く散歩をしていると、奇妙な遅さで前から近づいてくる車があった。
それがフォルクスワーゲンのビートルだということは、昆虫的なフォルムですぐにわかったのだが、あまりの遅さが昆虫にしては巨大すぎるその車体を強調し、なんとも不気味に感じられたものだ。
そのせいか「運転席に誰も乗っていなかったらどうしよう?」という不安が胸に広がり、すれちがうときは思わず目をそらしてしまいそうになった。
だが我慢してどうにか視線を向け続けると、そのワーゲンにはいかにもこの車を所有するにふさわしい、センスのいい服装をした老齢の男性が乗っていることが確認できた。
「誰も乗っていない自動車が早朝の路上で、前方から接近してくるという恐怖体験はどうやら回避できたようだ。だが、運転している人物だと思ったのがよく見れば蝋人形であり、無表情で微動だにせず運ばれてくるのだとしたらふたたび恐怖が襲い掛かることは間違いない。しかも一度は安堵に包まれただけに余計に私のショックも大きく、はたしてそのとき自分がどうなってしまうのか想像もできない気がする。衝撃のあまり、路上で私もまた蝋人形のように身動きできなくなった結果、そのまま謎の自動車に轢かれて一生を終えるのではないだろうか?」
だが私が夢中で自分の心境を言葉にし終えた頃には、ビートルはとっくに私の背後へと走り去っていた。
振り返るとあんなに動きの遅かったビートルが、本当の昆虫のように小さくなって遠くの交差点を曲がっていくところが見える。
私の見ていないときだけ本来のスピードを出す車。その奇妙な有り様には世界の仕組みに関する重大なヒントが隠されているように思えたので、私の早朝は今日も充実感に包まれていった。

2019/04/13

貧困を確実に終わらせる方法は存在するが、その方法が記された本を手に入れるには顔から血の気が引くほどの大金が必要とされる。
結局のところ、人類の叡智が導き出した結論はいつもそのような行き止まりに突き当たるのがオチなのだ。
つまり「貧困を確実に終わらせる方法」の書かれた本が大幅に値下げされたり、無料で広く人々に行き渡った途端に、それはただの無意味な紙の束に変貌してしまうことが分かっている。
だから貧困から抜け出るためには、「貧困を確実に終わらせる方法」の書かれた本を買うために無謀な借金をするか、警報付きのガラスケースを叩き割ってその本を万引きするしか方法がない。いずれも目も当てられない悲惨な結果につながる可能性が高く、一か八かの賭けになるが、「貧困者が貧困であるのには理由がある」というこの世の手堅い法則の世界を自分の周囲だけでも揺さぶるには、そのような蛮行に打って出るほかにないからだ。
もちろん、多くの場合挑戦は失敗に終わり、以前よりもさらにひどい貧困の未来へと転げ落ちることになる。そのように転落していった者たちの手放したわずかな小銭の積み重ねが、ごくまれに賭けに勝った者の懐へ飛び込むことで貧困からの一時的な脱出が実現するのである。
何のことはない、ここで富裕層はあくまで「貧困脱出ゲーム」の高みの見物人や胴元であり、このゲームで彼らの懐が痛むことなどありえないのだということを、貧困者は肝に銘じておく必要がある。
つまり貧困脱出は世界中に遍在するゲームとしてあらかじめ金持ちたちの手で登録されており、そのための情熱はもれなくコイン投入口に吸い込まれる仕組みが完成しているのである。
「この世からすべての貧困を終わらせる方法」がどうしても見つからないのはそのためだ。
考えれば考えるほど着実に絶望に追い込まれていくだけの我々にできることと言えば、すべてを平等に地を這うような貧困の世界へ引きずり落とすため「富裕を確実に終わらせる呪文」の印刷された紙片を大量に用意し、あらゆる裕福そうな玄関先に手分けして配達することくらいだ。
途中で紙や印刷代が不足した場合、 木の葉などに呪文を手書きしてもいいだろう。

2019/04/12

この町にはいくつかの公園とコンビニがあり、貧乏な人間が気分転換にふらっと立ち寄るにはそうした場所がうってつけだ。
とくに公園は、うっかり食欲や物欲を刺激されることでそれを入手するための金がない、という現実に打撃を受ける心配がいらないから、いくらでもベンチの上で時を過ごすことができる。
意味もなく空を見上げて雲の動きを眺めていると、自分もこの世界を動かしている無数の歯車のどこかに位置しており、目の前を鳩が横切ったりすることと自分のまばたきや鼓動がどこかで連動しているのでは? といった想像が心を占めてしまう。
だとすれば、わずかな希望の破片を集めてお守りにするような虚しい営為しか残されていないこの世界を、突然素晴らしい興奮と笑顔に満たされた理想世界へと変化させるボタンのようなものも、身近などこかに発見できるのかもしれない。
それは普段は思いもよらぬものに擬態しているが、そうと知らず押した瞬間に高らかなファンファーレのようなものが響き渡り、世界は誰もが待望していた姿に自動的に変貌し始めるのだ。
最も「理想世界へのボタン」からほど遠いと思えるものに擬態しているからこそ、まだ誰もそれを押すことができていないのだろう。我々が無関心でしかいられぬような取るに足らないものや、あるいはおぞましくて指を触れたいと思う者が存在しないような代物の可能性もある。
それは一体何なのだろう? 名もないような草花? うち捨てられたアイスの棒? 思いめぐらせながら公園のベンチで周囲を見回しているうちに、今日も日が暮れて辺りは薄闇に包まれ始める。
今のところ私が指を触れたくないもので視界に入ったのは、飼い主が始末を怠った犬の糞だ。
しかしながら、たとえこの世界を絶望から救う扉が開くボタンがそこにあるのだとしても、私はそれを押す気にはなれなかった。
希望に満ちた新しい世界に「指に犬の糞を付けた人」として入っていくのは真っ平だからだ。そんなご立派な役目は、ぜひもっと志の高い人にお任せしたいものである。

2019/04/11

美術館や博物館、映画館などの施設では、利用者のための売店が設置されていることが多い。そこで売られているのは、簡単な飲食物の他にはその場でしか買えないようなグッズなどだが、たとえば私の住むアパートの側面に売店が併設されるとすれば、そこではいったい何が売られるべきなのだろう?
このアパートに住む他の住人のことは何も知らないから、 まるでアンケートを取ったかのように住人たちが必要とするものの例をここで列挙することはできない。グッズという意味でなら、アパート名の入ったキーホルダーなどが妥当なところだろうか。それならば食品と違って、時間が経てば廃棄しなければならないという問題も生じない。そしてごく一般的な、清涼飲料やビールといったドリンク類と、ポップコーンや菓子パン程度の取り扱いがあれば、そこが売店だということをとくに宣伝しなくともひと目で理解させることができる。
売店の売り子とは、必要最小限の会話にとどめるべきだ。ご近所の顔見知りのような挨拶を交わしたのでは、まるで興ざめと言うべきだろう。そんな「売店のある日々」のことを考えながら毎日を過ごしていると、窓の外をよこぎる猫の影なども「休憩時間が終わって売店に戻ってきた売り子」のような気がして、思わずあの氷だらけのコーラを買いに行こうと腰を浮かしそうになる。
そこでハッと我に返り、私は台所でとくに金を払うこともなく蛇口をひねってコップに水を注いだ。
そのときふと、水道水は下から読んでも水道水だということが頭に浮かんだ。
私は誰に伝えるでもなくそのことをつぶやくと、おもむろに水を飲み干したのだった。

2019/04/10

春は出会いと別れの季節だと言われている。春には出会いがあり、それと同じ数だけの別れがあるからだ。別れることで人は出会うのだと言えるのなら、どんな悲しい別れもただ悲しいばかりではないし、まして春の別れは旅立ちを意味しており、すぐに出会いの場面へと切り替わる予感が胸を熱くさせる種類のものだ。
だから春の訪れを体感しながら、誰もがこの季節に経験した出会いと別れを心によみがえらせ、しばらくの間感慨にふける時間が過ぎるのだろう。桜の花がパッと開いてパッと散ることも、この春という時間にひらめくフラッシュのように過去の出会いと別れを照らし出す光の役目を果たしている。いったいどれだけの人々が桜の木の下で、今まで出会いと別れの劇を演じてきたのだろう? それは劇と呼ぶにふさわしいドラマチックさを持ちながら、あくまで現実の一場面であり、その前後によこたわる人生の時間にひとつの彩りを添えるものだ。
この春に別れてきた人たちと、あらたな出会いをする人たちとがともに笑顔で手を振っている、そんな感動的な映画のシーンのようなものがそこらじゅうで発生しているのだと思うと、胸がいっぱいで食事も喉を通らなくなり、思いがけないダイエットの効果があることがSNSの口コミなどで広がっていると言われている。
ただダイエットには専門家による指導が不可欠であり、素人が世間の噂を耳にして実行するタイプのダイエットには健康上の危険が伴うことはもっと指摘されるべきなのだ。
そうしたダイエットに効果が全くないとは言わないが、多くの場合偶然に左右される不安定なもので、データの裏付けなどはもちろん存在しない。あくまで栄養バランスを保ちながら効果的な運動を続けるのがダイエットの基本なのである。そこをないがしろにするかぎり、もし体重の減少が確認できてもどこかに無理が生じている可能性は拭えず、いわば命を削って脂肪を落とすという本末転倒な事態を懸念しなければならない。
春という季節が人の心身にもたらす影響は甚大なものだ。そこで演じられる出会いや別れというエピソードの表面的な派手さに惑わされることなく、自分の心身のありのままの状態を正確に認識し、健康管理を心がけてゆきたいものである。

2019/04/09

いつもより長い時間散歩していたら、見たことのない場所に来ていた。ありふれた住宅地が無限に続くと思われた通りだが、ちょっと考え事をしている間に周囲はずいぶん荒んだ印象に変わり、割れた窓ガラスが放置された家々には人の気配が感じられない。
まるでゴーストタウンを歩いているような気分になった私の心は、急速に暗く沈んでいった。
「今すぐ来た道を引き返せば、ふたたび明るく華やいだ雰囲気の新興住宅地に出ることは間違いない。だが、それではこの廃墟のように荒廃した町の現実から目を背け、心地いいものだけに囲まれて生きたいと宣言しているも同然だ。救いようもなく悪くなっていくこの国の現実に対する誠実な態度が、改元を間近に控えた今は問われているのではないだろうか?」
そう早口で独り言を述べた私は、平成という時代の実情を目に焼きつけるべくゆっくりとした足取りで道を進んでいった。
もちろんどれほどゆっくり歩いても、私の足は平成の終わりを追い越して次の元号にたどり着いてしまう。幽霊の出そうな空家だけが並ぶ一か月間をさまよい歩いたところで、その日が来れば自動的に未知の時代で突然目を覚ましたように周囲は変わり果て、あらゆるものがフレッシュな輝きに満ちていることに気づくだろう。
今必死になって目に焼きつけた光景も、宇宙人に解放されるときの人類が皆そうされるように、記憶から洗い流されてそのとき私には何も残っていないのだ。
だとすればこんな無駄な散歩はやめて一刻も早く自宅に帰りたい。陰気な町を歩いて陰気な気分になったまま新時代を迎えることは、一人だけサンタクロースの扮装をしたまま新年を迎えるように滑稽で、場違いな姿に違いないのだから。

2019/04/08

この世に生きていることそのものに含まれる犯罪性を、ゼロにする方法は存在しないと誰もがうっすらと気づいている。
そのことが苦痛となるのは、他人が私に犯してきた罪を咎めるに際し、自分もまた一介の罪人に過ぎないという意識にさいなまれ、他人へ振り上げたはずの拳が自分を打ち据えるという不条理が耐えがたく、やり場のない怒りを発生させる経験だからだろう。
このような苦痛には今のところこれといった解決策がなく、人々はただ最新のヒット曲などに没入することで一時的に苦痛から目をそらし、つかのまの幻のような世界に身を委ねることになる。
そのため、現代の才能あるソングライターたちは「生きていることそのものに含まれる犯罪性」を効果的に忘れさせるような作曲のノウハウを共有し、そればかりを使い回しているところがあった。一生檻に閉じ込められたままの囚人に、檻の外の自由を疑似体験させるような楽曲のみが金を払う価値のあるものと判断され、チャートに名を連ねている。そんな現状に批判的な、気骨のある作家も皆無とは言えないが、これだけ音楽産業の斜陽化が叫ばれる現在、確実に売れる路線を捨てて我が道を行く作家など、真っ先に業界からゴミのように捨てられてしまうのがオチだ。
だから私たちがイヤフォンから流れてくる音楽に耳を澄ませば、「生きていることそのものに含まれる犯罪性」への罪悪感が著しく軽減するかわりに、イヤフォンを外したとたん罪悪感が一層重くのしかかって押しつぶされるという悪循環が、どこまでも続いていくのである。
すべてのヒット曲の再生をいったん停止させ、街路樹の枝葉がこすれる音などに人々が耳をすませるのがこうした閉塞感への最良の処方箋なのだが、 そうとわかっていても誰もそんなことを実現することはできない。
この世の権力を集中させた独裁者でもない限り、最良の計画は実行不可能なものなのだ。

2019/04/07

「反出生主義という考え方は、まるで取るに足らない、くだらないものだと今すぐ断言できる。もしも『この世に生まれてこない権利』というものがあるとしても、すでにこの世に生まれている者によって主張される限り、それは金持ちが貧乏人に向かって『金なんて碌なものじゃないから、ないほうがむしろ幸せだ』と説くのにも似たいかがわしさを逃れることができない。あるいは『男性が作ってきたこの社会は碌なものじゃないから、女性は権力などという下らないものに関わらず、社会の外側で自由に羽ばたいてほしい』と述べる男のいかがわしさと同じだと言えばいいだろうか? その特権的な立場になって初めて言えることを、いまだそこに到ることを許されない人々の代弁者のごとく口にすべきではないのだ。まともな神経を持つ者なら慎むべき破廉恥な行為というべきだろう。それは結局、すでに『持てる者』の側からの驕りに満ちた、さらなる搾取をしか意味しないのである。ましてこの世に生まれていない者にインタビューする手段が現状存在しない以上、そこでは当事者からの反論が一切封じられている分、悪質さもひとしおと言わねばならない……」
道を歩いていたらむこうから歩いてきた無表情な男性が私の前に仁王立ちして、そのような興味深い発言をし始めた。
男性は胸のポケットに小鳥を一羽入れており、彼が熱弁をふるっている間小鳥はまるでBGMのように美しい声で鳴き続けたのである。
だがよく考えてみれば、喋っているのは実は小鳥のほうで、BGMのようにさえずっていたのが男性のほうだったとしても全然おかしくはない。それらは同時に聞こえていた以上、正確に聞き分ける方法は存在しなかったし、二つで一つのハーモニーを奏でているという意味で、けっして切り分ける意味などないものなのだから。

2019/04/06

他人の手足や、時には顔面さえも踏みつけなければ一瞬でも立っていられない社会に我々が生きているのなら、「この社会を変える」と決心したところで他人の顔を踏んでいる現実は続いており、他人の顔を踏みながら「この社会を変える」と叫び続ける人間が一人誕生するだけだ。
心ある人はこの矛盾に苦しみ、一時的にこの社会の外に出ようとする。だが他の惑星にでも旅立たない限りそんなことは不可能なので、絶望のあまりホームから電車に飛び込むことになる。
そのため心ある人の数は年々減る一方であり、口先だけ綺麗事を言いながら自分の踏んでいる他人の顔を「これは顔のように見えるかもしれないが、実はただの地面だ」と言い張るような冷酷な人間だけが、今では社会派として大手を振っているのだ。
まったく何の救いもない、一筋の光とも無縁な我々の社会の状態はそのようなものだ。
だが冷酷な人間たちの非人道的なふるまいには、この社会を真に変革するためのヒントが隠されているように思う。
つまり実際に他人の顔を踏みつけるかわりに、あらかじめ顔に見える地面を用意してそれを踏むようにすれば、この社会の基本的な仕組みを維持したまま現実の悲惨な側面のみを取り除くという、我々が喉から手が出るほど欲している改革が可能になるのかもしれない。
現実に、すでに心ある知識階級の人々の目に見えない活躍によってそうした社会が実現しつつあるような気もしている。
つまり我々は誰か他人の顔や手足を踏みつけていることにいつも心を痛めているが、実はそれらは単に地面に描かれた模様と入れ替わっており、当然痛みを覚えることはないから今では思う存分踏みつけても構わないのである。
これからは知識階級の人々の透明な活躍に心の中で感謝しながら、心置きなく顔のように見える地面を踏みつけ、悲鳴やうめき声のように聞こえる風の音に耳を澄ませたいものだと思った。
世界はようやく素晴らしい方向に変わりつつある。そう確信すると嬉しさの余り、私の口から大量のよだれが溢れてきた。

2019/04/05

公園の日なたのベンチで、どこにでもいるような老婆が居眠りしていた。その膝に広げられた新聞には、いくつかの事件の見出しが特売品の商品名のように躍っていた。
あれだけの年齢を重ねる間に、多くの事件の詳細を見聞きしてきた老婆にとって、新聞はまったく退屈で眠気を催すほかないしろものなのだろう。
そう一瞬思ったものの、よく考えたら老婆は居眠りしているわけではなく、二十一世紀にもなっていまだこの世に血生臭い事件の絶えないことを今さらのように思い知らされ、ショック死しているところなのかもしれない。
そんな不安が心に芽生えたため、私は背中に汗が流れるのを感じながらベンチへと近づいていった。
するとしだいに老婆の寝言が聞こえてきたので不安は解消され、ほっとした私の耳にその寝言が流れ込んできた。
「プロ野球の投手はその職業柄、酷使される利き腕がもう一方の腕の三倍ほどの長さがあると聞いたことがある。そのため衣類はすべて特注品だし、日常生活でも不便極まりない(箸やスプーンが非常に遠くなる)という話だが、それでも球界入りする人間が後を絶たないのは、衣類を特注しても有り余るほどの給料が保証されているからなのだろう。そのかわり、引退後の生活は悲惨そのものなのだが、昼夜問わず野球ばかりしてきた彼らの脳には人生設計をするためのスペースが確保されていないのだ……」
そう語った老婆の顔が苦渋に満ちた表情になった。私はその顔から固く絞られた雑巾を連想した。

2019/04/04

長期にわたる貧困が私たちの精神から自由を奪い、ただ身の回りの貧者どうしの諍いに余力のすべてを注ぎ込むような暮らしが続いていくのなら、この世界はますます金持ちと権力者だけが大手を振って歩ける構造へと作り直され、我々は彼らの使い捨ての道具にふさわしいマナーだけをひたすら叩き込まれていくのかもしれない。
貧困層の中から目を見張るような賢者が登場して、こうした構造からの脱出口を我々に示すといった出来事は、もはや微塵も期待できなくなってしまった。それはもともと夢物語だったかもしれないが、今ではそんな夢を見るための材料が現実から払底しているからだ。
我々にできることは、この何の救いもない絶望が深まる道のりが我々だけのものではなく、金持ちや権力者たちもまた結局のところ同じ過程を進んでいると想像し、人類が平等にもがき苦しみながら絶望と後悔の中で滅ぶ瞬間に望みを託すくらいだ。
だがそれが事実だとしても、我々はきっと金持ちや権力者たちよりひと足先に滅ぶことになるだろう。つまり彼らの悲惨な最期を見届けることは無理な話なのだ。
だから我々は、この世の金持ちや権力者たちの想像を絶する苦痛に歪んだ顔と、泣き喚く声に満ちた地獄のような最期の光景を存分に予想し、小説や漫画、演劇や映画などの形で自由に表現して、あらかじめ見学しておくべきではないだろうか。
我々もまた人類という救いがたい存在の一部をなすものとして、そのくらいの権利はあるのだと思いたいし、それは社会人としての義務でさえあるのかもしれない。

2019/04/03

かつて当たり前のようにそこらじゅうで見かけられた平凡な行為が、今では誰もが眉をひそめるあきらかなマナー違反や無神経な悪行として糾弾され、場合によっては刑務所へのチケットにさえもなりうる。
時代が変わるというのはそういうことなのだと、年齢を重ねることで私もしみじみと思い知るようになった。そこで過去の思い出の中にある習慣にしがみつき、現代の新しいルールを受け入れることを拒む者は、すでに野球が終わってサッカーが始まっているグラウンドで、一人バットを振り回す身勝手な人間のように迷惑極まりない存在だ。
だがそんな本人に明らかに「サッカーを拒む意志」があるとはかぎらない。みんなが楽しくサッカーをしている中へ金属バットを持って乱入してくる狂人は、単に野球がいまだ続いている(そして自分に打順が回って来た)と信じ込んでいる場合があるのだ。
そんなときは積極的にその人物の顔面に向けてサッカーボールを蹴りつけるなどして、ボールの大きさが変化していることを体感させるなどの方法が効果的だ。
もちろんそれでも相手は事情が飲み込めず、デッドボールだと信じて一塁(があると信じている方角)に向かって走っていくかもしれない。だがそのときようやくバットを手放したこの人物を、我々は一斉に飛びかかって安全に取り押さえることができるだろう。
こうして時代遅れの野球老人を厳重に縄で縛り上げ自由を奪ったうえで、人々は生き生きと楽しくサッカーの試合を再開することができるのである。

2019/04/02

人々から笑顔が失われていくような時代がこれ以上続くなら、もはや今まで笑顔とされてきたような派手な表情を我々の社会から廃止して、これまでなら無表情と呼ばれていたような地味な顔の状態をあらためて「笑顔」として定義し直せば、この社会はふたたび笑顔にあふれた素晴らしい場所として生まれ変わり、かつてのような活気を取り戻すのではないか?
そんなアイデアをつい今しがた思いついたので、さっそく政府の「国民のアイデア募集ダイヤル」に電話して提案してみた。
すると電話の向こうで話を聞いていた女性はにわかに声をひそめた。
「ここだけの話ですが、実はそのアイデアはすでに有識者の会議の中で提案され、採用が決定しているのです。おそらく次のオリンピックの開催前後あたりには正式発表があるはずですから、私たちの社会はふたたび人々の笑顔にあふれた素晴らしい本来の状態を取り戻すことが確実なので、どうか楽しみに待っていてくださいね」
そのような満足のいく回答を得られたことで私は非常に感慨をおぼえ、つらく苦しい時代の終了が宣言されることの目印になる次のオリンピックの開催が、本当に楽しみでしかたなくなった。

2019/04/01

近所のコンビニの店長に影武者がいるという話を最近耳にした。
「こんなことを言っては大変失礼かもしれないのですが、コンビニの店長さんに影武者が必要だとはどうしても思えなくて、おそらく根も葉もない噂だろうというふうに私は判断してるんです」
長年に渡って店長だと信じてきた中年男性に向かって、私は率直にそう自分の意見を述べた。
すると男性はどこか意味ありげな笑みを浮かべ、こう答えた。
「なるほど一般の方にはそう見えているのかもしれませんね。ただ業界内部の人間として言わせていただければ、いまやコンビニは戦国時代を迎えているというのが通説です。戦国武将に影武者という存在が付き物なのは、日本史に関心のある方なら誰でもご存じではないでしょうか? そして一国一城の主という意味では、コンビニ店長と武将は意外なほど似通った存在だということも可能なのです……」
そう言いながら彼がふと視線を雑誌コーナーの方に向けたので、私はハッとして後ろを振り返った。
この店に来ると必ずエロ本を立ち読みしているのを見かける、いかにも清潔感に欠けた性犯罪の前科のありそうな初老の男が視界に入った。
もしやあのエロ本好きの男こそが本物の店長であり、目の前にいるのは単なる雇われた影武者なのでは?
そんな疑惑の目で雑誌コーナーを凝視すると、立ち読みの男はヌードの印刷されたページから一度も目を上げぬままかすかにうなずき、私の推理への同意を示したのだ。
オリンピックを機にエロ本コーナーが廃止されるのは時間の問題だが、その後「本物の店長」はいったいどこに自らの居場所を求めるのだろう?
今や私には、ただそのことだけが気がかりなのだった。