2019/04/08

この世に生きていることそのものに含まれる犯罪性を、ゼロにする方法は存在しないと誰もがうっすらと気づいている。
そのことが苦痛となるのは、他人が私に犯してきた罪を咎めるに際し、自分もまた一介の罪人に過ぎないという意識にさいなまれ、他人へ振り上げたはずの拳が自分を打ち据えるという不条理が耐えがたく、やり場のない怒りを発生させる経験だからだろう。
このような苦痛には今のところこれといった解決策がなく、人々はただ最新のヒット曲などに没入することで一時的に苦痛から目をそらし、つかのまの幻のような世界に身を委ねることになる。
そのため、現代の才能あるソングライターたちは「生きていることそのものに含まれる犯罪性」を効果的に忘れさせるような作曲のノウハウを共有し、そればかりを使い回しているところがあった。一生檻に閉じ込められたままの囚人に、檻の外の自由を疑似体験させるような楽曲のみが金を払う価値のあるものと判断され、チャートに名を連ねている。そんな現状に批判的な、気骨のある作家も皆無とは言えないが、これだけ音楽産業の斜陽化が叫ばれる現在、確実に売れる路線を捨てて我が道を行く作家など、真っ先に業界からゴミのように捨てられてしまうのがオチだ。
だから私たちがイヤフォンから流れてくる音楽に耳を澄ませば、「生きていることそのものに含まれる犯罪性」への罪悪感が著しく軽減するかわりに、イヤフォンを外したとたん罪悪感が一層重くのしかかって押しつぶされるという悪循環が、どこまでも続いていくのである。
すべてのヒット曲の再生をいったん停止させ、街路樹の枝葉がこすれる音などに人々が耳をすませるのがこうした閉塞感への最良の処方箋なのだが、 そうとわかっていても誰もそんなことを実現することはできない。
この世の権力を集中させた独裁者でもない限り、最良の計画は実行不可能なものなのだ。