2019/04/28

外を歩いていたら急に雨が降ってきた。
だが私は傘を持っていないので、雨など降っていないかのようなふりをして歩き続けた。
すると前方から歩いてきた人が私を見て傘を閉じようとしたが、雨が降っていることに気づいてふたたび傘を差した。
すれ違うときその人は不安げなまなざしを私に向けた。私があまりにも「雨が降っていないときのような歩き方」を堂々と維持しているので、自分の見ている雨が幻覚ではないかと心配になっているのだと思われた。
だが私はその人を安心させるために「傘を持たずに外出して雨に降られてしまい、失敗したと思っている人の歩き方」へと変更する気にはなれなかった。
それは私に他人の心を思いやる精神が欠けている証拠なのかもしれない。雨に濡れることに動じないという強さに恵まれた者は、雨の中で傘をさすという当然のふるまいにさえ挙動不審になってしまうような繊細な者をいたわり、さまざまな配慮によってその精神に安らぎをもたらすように歩み寄ってあげるべきなのだろう。
人々が自分さえ良ければいいというエゴイズムを捨てて、とくに自分より脆く壊れやすい存在に対して思いやりを見せることで世界が温かな心地よさに包まれていくことは、二十一世紀を生きる私たちにもはや不可欠な常識なのだといえる。
だが私は雨の中で傘を所持していないという意味では「持たざる者」の側にいるのだから、その自らの弱さをむしろ「見せつけることによって隠す」という奇妙なふるまいに及ぶ自分に対して、何とも不可解な思いに囚われていたのも事実なのだ。
ここには私の人生を、いっこうに出口の見えてこない迷路のような場所に変えている根本原因が隠されているのかもしれない。
そんな気がした私は、突然踵を返してさきほどすれ違った人物を駆け足で追いかけると、いきなり背後からキックを浴びせて倒れたその哀れな犠牲者から傘を奪い取った。
他人の傘を差して颯爽とその場を立ち去る私に、戦場の銃弾のような雨がいつまでも降りそそいでいた。