2019/04/27

すべてを理解するためにはすべての本に目を通す必要がある。それができない以上、私たちの理解はつねに不完全で、むしろぽっかりとあいた穴の方が大きいものだ。その穴を空想で埋めることでどうにかこの世のことに最低限の知ったかぶりをして、何か意見を述べたり、抗議したりする権利があるというふるまいを続けているのかもしれない。
遠くの方を奇妙な形をした動物が歩いていくのが見えた。私はきっとあれは犬だろうと思って、犬を散歩させる人間が後に続くのを待った。だがいくら見つめてもそこに飼い主らしい人影はあらわれずじまいだった。つまりあの動物は単独で道を歩いていたのである。
こんなとき、私は困惑のあまり腕時計を眺めるふりをしたり(実際には腕時計などしていない)、携帯電話を取り出して通話のポーズをしたりしてしまう。困惑している姿そのものを人目にさらすことは、どこか魂を無防備に地面に転がしておくような不安があるものだ。それは漠然と他人の視線という意味でもあるし、もっと具体的な、たとえば遠くを単独で歩いていた奇妙な形の動物そのものの視線を恐れている可能性も、あるような気がしていた。
どんな習性を持つのか見当もつかない未知の生物が、自らの姿を目にして混乱している哺乳類(それは私だ)を見てどんな感想を抱くのか? そこに私は何の答えも用意できていないのである。
すべての書物に目を通したわけでもない私が言うべきことかはわからないが、おそらくその答えを持つ者はまだ人類に存在しないのではないか? そんな予感に囚われるとき、私は速やかにこの場を離れるべきだという野生の勘のようなものに突き動かされる。人類の歴史が蓄積した知恵のほんの一割にすらアクセスできないのが現状なら、こうした勘の働きで自動的に体が動いてしまうことこそ、非力な私にとっての救いなのかもしれない。
私は冷静さを装って、ちょっとした散歩を楽しむ人のような表情で歩き始めた。
そんな表情を保ち続けることができれば、いつしか心も表情に引きずられて本当に散歩を楽しみ始める場合がある。そんなところに、この過酷な世界で生きていくことのかすかな慰めがあるのだ。