2019/04/26

酒によって身を滅ぼす人は後を絶たないし、人生に決定的な傷を負うところまでいかないものの、飲酒のダメージの蓄積された体でさまざまな病気の入口に立っている人たちが無数に存在している。
多かれ少なかれ、寿命を削ってまで飲酒を続ける意味があるのかと問われて、大きな声でハキハキと「あります!」と答えられる人はさほど多くはないだろう。だが人生にともなう苦しみの数々は、自分を内側から殴り続けるような恍惚に身を委ねることなしに、とうてい耐えうるものではないのも確かなのだ。
だからこそ、アルコールのある場所ではドラマが生まれるのだし、その思い出がまた人をアルコールのある場所へと引き戻してしまう。まるで心の傷を体への傷で上書きするように、人はアルコールに身を沈めるのだとすれば、それは一種の自傷行為だということも可能だろう。自傷行為が死を遅延させるためのもので、死なないために行うものだという解釈をとるならば、飲酒もまた今すぐ線路に身を投げ出したくなる衝動を抑え、いわば自己破壊の衝動を分割払いしているような行為なのだ。
人生の長い旅路をたどるのに何らかの交通手段が必要だと考えれば、そこで支払われているのは電車賃やガソリン代のようなものだとも言えるかもしれない。同じ車両に乗り合わせた人たちと互いの旅の安全を祈る気持ちで、人々はグラスを合わせる。
そのときカチリと鳴ったグラスの音は「よい旅を」というあのお決まりの挨拶の言葉なのだ。