2019/04/20

電車が動き出す前に発車ベルが鳴りわたるように、人生の始まりにもまた赤ん坊はベルのようにけたたましく泣き喚くのだろう。
つまり人間が泣くということは、それが人生で何度目かの発車ベルを鳴らしている時間だということを意味している。人生の旅の途中で駅に停車し、懐かしい誰かが降りていった後に、見知らぬ誰かが乗り込んでくる。そうした貴重な出会いと別れの交差を見届けるように、われわれの喉から漏れる発車ベルの音。それはまた新たな旅へと風景が動き出すことの合図なのだ。
悲しみの涙もあれば、喜びの涙もある。ライバルに負けた悔しさも、困難を克服した人の物語への感動も、私たちにひとつの停車駅を与えるだろう。それらがあってこそ充実するのが列車の旅であり、ただ出発地と目的地を一直線でつなぐだけでは味気なく、昆虫や魚類などの一生となんら変わらないものになってしまう。
私たちには少しでも多くの停車駅が必要なのだ。涙はいわば停車中の列車から降りてホームで購入する、ちょっとした飲み物や弁当のようなものだ。
もちろん、のんびり時間をかけて選び過ぎたために発車時刻に間に合わず、置き去りにされたホームで駅弁片手に呆然と立ち尽くすこともある。
そんなときは慌てず騒がず、次の列車を待つことが肝心だろう。
ホームのベンチにぽつんと座って食べる駅弁にも格別な味わいがあると言われている。人生には完璧な予定表など、本当は存在しないも同然なのだから。