2019/06/23

伊豆半島のどこかに小さなホテルがあり、その三階か四階に牛のような顔の男が泊まっていて、とくにどこへ出かけるでもなく部屋で本を読んでいるようだ。
本のタイトルは『あなたは牛に似ている』だった。そんな本ばかり読んでいるから牛に似てしまったのだろうか? あるいは、そんなに牛にそっくりな顔にも関わらず、彼には自分が牛に似ているという自覚が乏しいのかもしれない。その場合、家族や親しい友人などに勧められ、渋々そんな本を読んでいるのだろう。
だが読み始めてみると案外面白くてつい夢中になり、本来なら休暇を釣りやサイクリングなどで有意義に過ごすはずが、ついホテルにこもって貪り読んでいるのだとも考えられる。
ふだん読書の習慣などないサラリーマンをそれほどまでに夢中にさせる『あなたは牛に似ている』とは一体どんな本なのだろう?
そう思って私はネットの検索機能などを使って調べてみたが、どうしても情報にたどり着くことができなかった。
だからあくまでこれは想像に過ぎないが、きっとただの無味乾燥な文字の羅列にとどまらず、センスのいい挿絵や、部屋に飾りたくなるようなオブジェの写真などもふんだんに添えられた本なのだろう。
出版不況と云われる現在、中身さえ充実していればあとは自然に売れるはずという殿様商売の時代は、とうに終わったのだと考えられる。
表紙のデザインから印字されるフォントなども含めて、対象となる読者の元へ最短距離で届くような設計がなされていることがこれからは重要になっていく。ちょっとでももたついていたら道を外れてしまい、それはふさわしい読者のところへ二度と到着するチャンスを失うのだ。
伊豆半島のホテルの三階か四階で、自分と向き合う時間を過ごすのにふさわしい本というのがもしあるとすれば、きっと装丁や全体のレイアウトなどがその日その時間に、その部屋へと届く宛先のようにあらかじめデザインされていたのだろう。
そんな運命的な一冊と出会えるチャンスは、人生にさほど多いわけではない。夢中で本のページをめくる彼の横顔を想像すると、思わず私の頬も緩んでしまう。
ぜひ私も同じような出会いを体験したいものだ。血眼になって本屋をめぐるのではなく、自然体で構えているところへ偶然飛び込んできた小鳥のように手元に訪れる一冊。
そんな素敵な出会いにそなえて、毎日美味いコーヒーを淹れて待っていたいものだと思う。