2019/06/07

どこか甘美なムードの漂う音楽が、頭上の部屋から聞こえてくるようだった。
だが真上の部屋はもう何年も前から空き部屋であり、住人はいないはずだ。ということは聞こえている音楽は私の幻聴であり、このアパートに住む他の住人達には聞こえていないのだろう。
そう思うと私はなんだか自分だけ得をしているような気分になり、つい口元が緩んでしまう。正直な話、一人で聞いているのはもったいないと思えるほどそれは私の心に甘美な感情を芽生えさせ、たちまち育ててしまう力を持つ音楽だったからだ。
せめてこの音楽を記憶しておいて、誰か人と会う機会があったときに鼻歌などで再現してみせたほうがいいのでは? 私はそう思って、じっと耳を澄ませて音楽に聞き入った。というのも、私は楽譜が書けないし演奏できる楽器もなかった。ただ記憶してハミングしてみせる以外にこの曲を届ける方法は見当たらないのだ。
「すっかりこのメロディーを覚えることができたら、最初に誰に聞かせようか? 音楽が好きでさまざまなライブに出かけているという評判のヨシオくんがいいかな。それとも高校時代軽音楽部で、小太鼓を叩いていたという噂のミツコちゃんに聞かせるべきだろうか」
我慢できずにそんな空想を始めてしまった。そのため音楽に耳を傾けることがおろそかになり、私は曲の大部分を聞き漏らしてしまったようだ。
あわててふたたび集中しようとしたが、なぜかラジオの電源を切ったかのように音楽は止まってしまっていた。今ではそれは「どこか甘美なムードの漂う音楽」という安っぽい言葉としてしか頭の中に残っていなかった。
だがそんなフレーズがふさわしい音楽など、この世には腐るほど存在する。人が音楽に求めている最大のものは甘美なムードであり、体を芯から溶かすようなリズムとメロディーさえあれば、数日間くらい水や食糧がなくても人は暮らしてゆけるはずである。