2019/06/08

通りからそのビルを見上げると、私はいつもなぜか西瓜のことが頭に浮かんだ。
緑や黒、赤など西瓜を思わせるカラーが建物にちりばめられているわけではない。そのビルの外壁は全体がうすむらさき色なのだ。
にもかかわらず、季節を問わず私はそのビルの前を通るたび西瓜を思い浮かべた。とくに食欲を刺激されるわけでもなく、ただ映像だけが頭をよぎるのである。
今さらながらそのことに疑問を感じ、私は今日初めてビルに足を踏み入れてみた。
外観からは複数の事務所が間借りしている建物に思えたが、どうやら半分以上は賃貸住宅のようだ。エントランスの集合ポストを眺めながら「空き部屋が多いようだな」と私はつぶやいた。
居住者の名前が表示されたポストは半分もないようだった。しかもそのどの名前欄にも「西瓜」とだけ書かれているのである。
「なるほど。こんな珍しい名字の人がひとつの建物に集まってしまうなんて、ほとんどテレビのニュースで取り上げられるレベルの奇跡に近い出来事に思える。そんな天文学的な確率の状態を叩きだしたこのビルが、無関係な私の頭の中にまで『西瓜』のイメージを送り込んだことはなんとなく納得できる話だ。もちろん、そのメカニズムを科学的に説明することは不可能だが……」
そのときエレベーターが到着して、住人らしきサングラスをかけた女の人が降りてくるのが見えた。
その人は「西瓜」と表示されたポストのひとつの中身を手慣れた様子で確認すると、訝しげにこちらをちらっと見てから颯爽とビルの外へと消えていった。
その最新流行のアイテムを取り入れた服装は特に西瓜柄などはあしらわれていなかったものの、夏らしいさわやかな雰囲気に西瓜と共通するものが感じられた。
名は体を表すというが、やはり名前はどこかしらその人のファッションなどに影響を与えるのかもしれない。そんなことに気づくことができただけでも、わざわざ見知らぬビルの中に足を運んだ価値はあったと思えたのだった。