2019/06/13

ひとつ残らず危険な、朽ちかけた遊具だけが並ぶ児童公園がどこかにあった。
そんな公園でうっかり子供を遊ばせてしまい、大事故が起きてからでは遅すぎる。今すぐ現場に駆け付けて出入り口をロープでふさぎ「危険につき立入禁止」という表示を出さなければならない。
それだけでは不安なので、自ら公園の前に立って道行く人たちに、
「ここの遊具はどれも錆びたり腐ったりしていて、とても危険な状態です。今すぐメンテナンスの必要があり、それが終わるまで子供たちを遊ばせるわけにはいきません」
そうアナウンスしなくてはならないという衝動に私はとらわれたのだった。
もちろん、大人が危険を承知でどうしても錆びついたジャングルジムや、ねじのとれかけたブランコで遊びたいというのなら「自己責任でどうぞ」と云うほかはない。だが子供たちは駄目なのだ。たとえ危険を承知で遊びたいと駄々をこねても、子供には「危険」を正確に知ってそれを「承知」するための能力がない。そこは大人がおせっかいにも口出しして、かれらが成長して自分の判断力を持つまで守ってやらねばならないのだ。
実際には、大人になったからと云って必要な判断力がつく保証はない。そんなものは持たない大人のほうが多い可能性だってある。だがそんなことを云い出せば、この世の中枢を担うような頭脳の持ち主たちがいちいち人々に「あれはしていい、これはしちゃだめ」という指示を出さなければならなくなり、繁雑すぎてとても社会が回っていかない。
だから嘘であっても「大人には自分で責任をとれる能力がある」ということにして、朽ちた遊具から大人が落下して死亡した場合はとくに問題にはせず、自然死のような扱いに落ち着くというのが現状の社会のあり方なのである。
ところであのひとつ残らず危険な、朽ちかけた遊具だけが並ぶ児童公園はどこにあったのだろう?
公園には奇妙な顔の人形のようなものも展示されていた気がする。動物でも人間でもない、しいて云えば果実が潰れたような顔の人形たちが、さまざまな不安なポーズを取らされて数メートルおきに何体も置かれていたのだ。
でたらめに赤や白のペンキを浴びせたような着色で、まるで猿に工作させたかと思うほど不出来な代物だった。
それらの不気味な人形のずっとむこうに、ペンキのように真っ赤な夕日が沈んでいく光景を覚えている。
おそらく二、三年前の初夏に、伊豆半島のどこかで訪れた児童公園だったはずなのだが。