2019/05/05

頭上にくす玉があるので、それがいつ割れて紙吹雪や風船などが自分に降りそそぐのかと私は気が気ではなかった。
むろん、それが私のために用意されたくす玉とはかぎらない。他人のためのくす玉の下に私が偶然立ってしまっただけかもしれないのだ。また、ある一定の条件を満たせば私の頭上で割れることになるくす玉だという可能性もあるだろう。たとえば特定のタイミングでその下に立った場合、くす玉は私を祝福の対象とみなすというわけだ。
いずれにせよ、こうして思いを巡らせるあいだもいっこうにくす玉は割れる気配を見せなかった。どうやらこのくす玉は私を紙吹雪を降らせるべき相手とは考えていないらしい。私は肩をすくめて、その金色に輝く球体の眩しさに目を細めた。
思えば、私の人生には祝福を受けるべき要素などほとんど見当たらないと言えるのかもしれない。生まれてきたとき、おそらくは大いなる祝福を受けたことだろう。まったく憶えてはいないが。そしてそれがほとんど最初で最後の祝福の機会であり、後は生誕の輝きの余光というべきものがかろうじて自分の足もとを弱弱しく照らしているに過ぎなかった。
思い描いた理想はそのかけらさえ手に取ることができず、ただ幻滅と失意の積み重ねを自分の年齢のように数え上げて疲弊し続けることが人生を名乗って、私のもとに居座り続けてきただけなのだ。
そんな自覚があるにもかかわらず、ふと見上げたとき視界に入ったくす玉を、自分のために用意されたものであるかにかすかに期待したのだから、まったく笑い話にもなりはしない。
あれは誰か立派な業績や幸福な日常などにより人生を輝かせている人のことをくす玉が「自分と同類だな」とみなして、その輝く表面に亀裂を入れるために用意されているのだ。
果たしてどんな人がカラフルな紙吹雪を浴びて驚きの表情を見せ、物陰から登場した人たちから拍手とともに次々と祝福の言葉を投げかけられるのだろう?
その瞬間がぜひ見てみたいものだ。
恐らくはそう言い訳のように考えるふりをすることで、私はいつまでもくす玉の下に未練がましくとどまり続けたのだった。