2019/05/04

批評は人類の歴史においてその必要性が認められ、独立した文化的な価値を持つ大変素晴らしいジャンルなのだ。けっして作品にもたれかかってかろうじて生きながらえているような他力本願な小賢しさなど感じられるものではないし、作品が示したある種の革命的な動揺への志向を、われわれの日常感覚としての平穏な景色の中に回収するという反動的な役割に甘んじているというわけではけっしてない。
むろんそうした側面がこの資本主義社会において批評に皆無というわけにはいかないはずだが、それはいわば商品であるために偽装された仮面としての表情であり、そんな表層をとらえて「批評の大半はつまらない」などと何の疑いもなく言語化するのは政府が発表するでたらめな数字だらけのデータや、将来への単に聞こえのいい広告コピーのような展望を素直に鵜呑みにするような白痴の所業だと言わねばなるまい。そのような主張をする輩を見かけたら、文章の全体などを読んで文脈を丁寧にとらえてやる必要はなく即座に、たとえ糞リプのそしりを受けようとも鋭く批判の矢を放っておくことが批評という聖なる職務に携わる側の人々の義務だと言えるだろう。
そのような義務が果たせない者にいまや務まらないほどに、批評という職務はしいたげられるとともにその聖性が高まっているのは間違いないのだ。それはけっして批評家の人材不足により文章のろくに読めない粗忽者が批評家の代表であるかのような意識に蝕まれてしまっている、という現状の暗澹たるさまを証明しているわけではない。そんなことはありえないのであり、批評家を自任する意識は重厚な教養に裏打ちされた読解力によって厳重に支えられているのだから、あえてフットワーク軽く糞リプめいた文言を繰り出すことで批評への敷居を低めに設定し、誰もが作品などすべて読まずに気軽に自由に批評してもよいのだというきわめて現代的なあらたな批評の規範への誘惑的な身振りとして、その言動は逐一位置づけられるべきなのである。
それが書かれた背後にある文脈になど一切想像を巡らせないのは当然のこととして、書かれたもののさらにごく一部だけをつまみ読みし、咄嗟に反射的に頭に浮かんだ感情を雄犬が電柱に尿をかけるように短く義務的に投げかける、そんな新時代の批評がSNSを通じて高貴な精神の批評家によって提案されている時代に同時に生きていられるという幸運を、ぜひとも噛みしめるべきなのだと感じているし、何か眩しいものがあふれ出るような箱の蓋が開きかけていることを、祝福するような気持ちで呆然と眺めている。