2019/05/07

知人のMは取るに足らない人物で、どれほどやむを得ない事情がある場合でも彼と話すのは完全な時間の無駄だ。地面に落ちている菓子パンのかけらを運んでいく蟻を観察したほうが、よほど有意義な時間を過ごすことができる。
もちろん将来は昆虫博士になりたいという希望を胸に抱く子供の話をしているのではない。そんな子供の場合、昆虫の生態を観察することに意義があるのは当然だからだ。私が云いたいのは、とくに昆虫に興味がないばかりか、蟻の観察がなんらかのビジネスチャンスに結びつくあてなどまったくない、一時のきまぐれな興味としての蟻の観察のことなのだ。
私にもそんなところがあると認めざるを得ないが、蟻という昆虫について「どう思いますか?」と他者から質問された場合、単に黒くて小さな生物だという以上のことが思いつかず、そのまま「黒くて小さいですよね……」などと口に出してしまいかねない人間が、一定の数存在している。
そんな人間にとって、地面の蟻を眺めることは橋の上から川の流れをぼんやり眺めるのにも似た行為である。そんな気の抜けたような時間の過ごし方でさえ、私の知人であるMという男(マゾヒストという意味ではない)と会話をすることと較べたら、まるで死を目前に控えた人にとっての日常がにわかに黄金の輝きを帯びるのにも似た、価値の高まりを感じざるを得ないのだ。
だがMはけっして悪人というわけではないから、むこうが会話をしたがっているのを無下に拒むのも気が引ける。心底くだらない、人間としての魅力に絶望的なまでに欠けた善人というものを、いったいどう扱えばいいのだろう? 他人にまったく気づかれることなく付け外しのできる耳栓というものがあるなら、Mの周囲の人には飛ぶように売れることが予想される。値段は千円くらいまでなら出してもいい、と考えている者が多いというのが、個人的な聞き取り調査を経ての感触である。
ただ、それ以上の値段になるなら耳栓を買うのではなく、今まで通り地面の蟻を眺めてやり過ごすことを選ぶ者が多数派を占めそうだ。そんな人たちの中から、あらたに蟻の魅力に目覚めて蟻博士への道を歩んでいく人が出ないとは、誰にも云えないだろう。