2019/05/26

何かとてつもなく重大な事実が私の心を押しつぶし、粉々にして風に吹き飛ばされたのちに、何食わぬ顔でまた私の中に心のようなものが生まれて、今ではそれが我が物顔で居座っている。
どうやらそんなことがかつてあったような体感が、日々の暮らしの底によこたわっていることが感じられた。
心が入れ替わってしまった以上、私はもうかつて味わっただろう途方もない重圧にみまわれることは二度とないのだろう。それはすべての記憶が消えて別人に転生したことに似ているが、この場合は記憶は失われたわけではなく、おそらくその気になればいつでも思い出せるようなものでしかない。
にもかかわらず、かつてそこから受け取ったような重苦しい圧迫は感じられず、ほかの無数の些事の中に紛れ込んでしまっている。この奇妙な居心地の悪さは、しかしはっきりと理由を示せるようなものではないのだ。
ここまで私が語ってきたことはすべて証明不可能な想像にすぎないし、実際にはそれとよく似た、またはまったく似ていないが結果だけは似たものをもたらすような、まるで別な体験が私を変えてしまっているのかもしれない。
そんな考えごとに気を取られている間に、私の帽子は突風に飛ばされて橋の欄干を越えていた。
あわてて手をのばすが指先にかすりもせず、帽子は眼下の川面に裏返しに着水し、そのままドンブラコと一寸法師の舟のように流されていった。
あの舟にもしかしたら、私のこの奇妙な違和感の原因が擬人化して乗り込み、永遠に私の元を去っていったのかもしれない。
やがて大海に流れ着いて藻屑となって消えていく、その「一寸法師」にはとくに未練はないが、帽子はまだまだ使える物だったので流されてしまったことが大変惜しかった。
たしかに安物ではあるのだが、失くしたから新しいものを買えばいいと思えるほどこちらは裕福ではない。たとえ下水の臭いが染みついていたとしても、べつに気にするつもりはないのだが。