2019/05/20

隣の家の庭にある木が花をつけ始めた。白い花だが、ありふれていて私には面白みに欠けているように思われた。
まるで大量生産の工業製品のように見飽きた色と形。すでに他の家の庭で咲いている花に右へ倣えをして、うわべだけ綺麗に整えたようなつまらない花だ。たとえ稚拙なつくりでも、自分ならではの個性にあふれた花を咲かせることの方が何十倍も素晴らしいのだということを、あの木はまるで理解していないようだ。
それは何も隣家の庭の木に限ったことではなく、この世界全般に対して思わず苦言を呈したくなる傾向でもある。
たとえば公道を走る大量の自動車からは、四つのタイヤを回転させて前に進んでいれば誰からも咎められることはないだろう、といういわば「世の中に対するみくびり」がどうしても透けて見えてしまう。
自分だけの個性にあふれるタイヤの数、他の誰にも真似できない不規則な走り方などで個性を発揮した場合、他の車の列から浮いてしまうし、迷惑がられて一斉にクラクションを鳴らされるなどの圧力を感じることになるのは確かだろう。
そうした軋轢をあらかじめ避けてみんなに合わせることを美徳とするような生き方は、この国の教育が長年に渡って固定させてきた、統治者に都合のいい価値観が蔓延した結果なのだ。
つまり教育制度の根本的改革に手を付けないことには、この無個性で味気ない世の中を変えることは永遠に不可能なのだと云える。
しかしながら、大臣にでもならないかぎりそのような大がかりな仕事に取り組めるはずもなく、大臣という権力者の地位についた途端「やっぱり周囲に合わせない迷惑な車が混じってると、事故とか起こされていろいろと面倒くさいな」という統治者的な判断が前面に出てきてしまうのは目に見えている。
だから世の中を変えるために自分が大臣になろうと血のにじむような努力をするのは、まったく無駄なことだと云わざるを得ない。
そんなことをしても、「かつて世の中を変えることを夢見ていた、今では単なる現状維持を望むだけの権力老人」がこの社会にまた一人増えるだけなのである。