2019/05/09

いつもの憂鬱な気分がなんの挨拶もなしに私のもとを訪れ、なけなしの幸福なひとときを踏みにじろうとしている。
ちょっとしたインスタントな旅情を味わうために、テレビの旅番組を見ているとしよう。そのとき私はそれ以上のもの、たとえば未知の土地に関する深い理解に根差した紹介のたぐいなどテレビに求めてはいない。おそらく自分では一生訪ねることのない土地を、まるで思い入れのない、なんとなく顔を見たことのある程度のタレントがいかにも台本がないといった自然なふるまいで冷やかしている光景。そんな光景から受けとめられる、非常にお手軽な旅情が私の求めているすべてなのだ。
ところが憂鬱な気分は私に代わって、テレビ画面の中の罪なきタレントたちに罵声を浴びせようとする。
まったく八つ当たりもいいところだが、旅費を負担しなくていいどころか、ギャラまで受け取って旅行している人間を見せつけられることに精神的苦痛を覚え、そのことへの損害賠償を請求する勢いでテレビへ悪態をついてしまうのだ。
すべては憂鬱こそに原因がある。食中毒にかかった人が嘔吐と下痢に見舞われるように、憂鬱にとらわれた人間は自分より恵まれて見える他人を毒づかずにいられない。
だがもしもテレビの中でどこか投げやりに旅を続けるタレントがふと画面から飛び出してきて、
「旅先のお土産の饅頭です、よかったら食べて下さい」
そう云って地名の印刷された紙袋を差し出してきた場合、憂鬱はたちまち吹き飛んでそのタレントに対する好感度もうなぎ上りになるのは確実だろう。
とはいえ技術的な限界により、いまだテレビ画面からタレントが飛び出してきたことはないのだ。
もちろん一人のタレントが全視聴者のお茶の間に飛び出すには、体がいくつあっても足りない。だから本当に飛び出すのではなく、そういう幻覚を見るのだと考えたほうが適当だろう。
だとすれば問題は技術的なものというより、法的な議論も含めた倫理的なものだと云えるかもしれない。
我々は果たしてテレビから何らかの薬品が霧状に噴射され、その作用によってタレントがお茶の間に土足で踏み込んでくる時代の到来を、素直に歓迎できるのだろうか?