2019/03/02

ひたすら自らのみすぼらしさを見つめて孤独に耐え続けねばならない「私」という牢屋から解放され、意思のない有象無象の中へと溶け込むのが「奴隷の自由」だとすれば、そんな有象無象の群れの密集した息苦しさから解放される引き換えとして「私」という密室に一生閉じ込められるのが、「牢屋の自由」なのだと言えるだろう。
人類はかつて、奴隷の自由を捨てて牢屋の自由を手に入れることに成功した。ところが近頃では長い歳月にわたる孤独に疲れ果て、結局「私」一人にできることなど何もないと悟ったかのように人類はふたたび奴隷の自由へと引き返そうとしているところではないだろうか?
だが私にも「奴隷の自由より牢屋の自由の方がマシだよ」などと人々を気軽に引き止めるような自信も資格もないのである。
いくら人々より多くの時間をこの社会をより良いものにするための思考に費やしているとはいえ、そこまで傲慢な態度はとれないというのが本音なのだ……。
だから私としては、この社会にまだ見ぬ「本当の自由」が訪れる爪の先ほどの可能性をまだ諦めるべきではないのでは。という提案をさまざまな場で行いたいものだと思い、今日は近所の老人たちが集うサロンのような場所へ赴き、目が合った老人から順番にこのような提案を投げかけてみたのだ。
だがインテリの悪癖だろうか? 結論を急ぎ過ぎる私の理路整然とした語り口は、高齢者たちののんびりした生活リズムと噛み合わなかったようだ。誰もが最後まで耳を傾けることなく嫁の悪口や囲碁の対局などの続きに戻っていったのである。
やはりこれからの社会についての問題提起を残り僅かな寿命にすがる老害どもに説いても意味がない、ということを痛感させられる出来事だった。
未来ある若年層の集う洒落た雰囲気のカフェなどを訪問するため、私はふたたびアパートの玄関を飛び出していった。