2019/03/10

どこからか甘い洋菓子のような匂いが漂ってくる。それは現実の菓子の匂いというより、心の中で思い描いた架空の食べ物から匂ってくるもののように感じられた。
だから私の頭に現れた映像は、見慣れたケーキやクッキーといったものではなく、才能のあるデザイナーがインスピレーションを信じて咄嗟に筆を走らせたような、斬新で鮮やかな形と色の菓子だった。
そのためすぐには食欲を感じることができず、しばらく自分の頭の中をじっと見つめていた結果、ようやくじわりと唾液が湧いてくるありさまだった。
「こうした見慣れない食品に食欲を覚えるたび、自分がとらわれている食文化の貧しさを思い知らされることになる。生まれ育った環境によって、人はごく狭い範囲の味覚に縛られる運命にあるのだ。積極的にその殻を破っていかない限り、他者への偏見をまるで文化的な特権であるかのように身につけて誇るような、最悪の人間になってしまうことは目に見えている。たとえば『老人の穿き古した肌着』にそっくりな食べ物があるとして、それが栄養満点なうえなかなかの珍味である可能性に思いを馳せることが、どれだけの人に可能だろうか? その程度の想像力へ足を踏み出す勇気もないまま、他人をまるで野蛮人のように扱う態度がこの国のインテリたちに蔓延しているのだとすれば、もはや未来に何の希望も持てないのかもしれない」
そのような思考を進めるうちにすっかり暗い気持ちになり、私の周囲からあの甘い匂いは消え失せてしまっていた。
もう一度匂いを味わうために、私は気持ちが明るくなるようなこと(見知らぬ富豪から何の前触れもなく遺産がプレゼントされることなど)を想像してみた。だがなぜかそれは叶わず、私はカビと埃の混じったような匂い(嗅ぎ慣れた、我が家の匂いだ)を思い切り吸い込んだだけだった。