2019/03/26

花見をすることにとくに思い入れはないが、この季節になると近所の桜の木の開花状況などについ関心が向かってしまう。
花が満開になったところでその下にビニールシートを敷き、缶ビールやつまみなどを手にしばし時を過ごす人の群れに混ざりたい、という欲求は私にはないのだ。
毎年何人かに花見に誘われる気がするが、じっさいに参加したという記憶がない。それは事前に断っているか、参加したものの記憶がすっかり抹消されているかのどちらかだろう。
もしも記憶が消えているなら、よほど印象に残らなかったのか、逆に覚えているのが苦痛なほど不快な体験だった可能性もある。いずれにせよ参加すべきではないということであり、花見を計画している人たちにも「やめたほうがいいですよ」と親切にアドバイスをしたいという気持ちでいっぱいだった。
だがせっかく楽しみにしている花見に水を差されたことで、怒りに火のついた短気な人が私に向かって石を投げつけたり、刃物のように見える武器を手に詰め寄ってくることを思うとそんな親切心はうかつに発揮することはできないのだ。
誰かに親切にするということは、その人が望まない変化を人生にもたらす意味を持つことが多い。桜の花を見て酒に酔い、羽目を外してその場限りのストレス発散を望んでいる人に対し、
「短い人生にそんな寄り道をしている暇はありません、花を見る時間を使って図書館へ行けば本が一冊読めますよ」
などと正論を述べても、反発をおぼえた相手はますます図書館嫌いになり、活字離れはさらに進む一方なのである。
そうではなく、もっと相手の気持ちに寄り添うようなかたちで、優しく手を取って人生の方向転換につきあってあげる辛抱強さがこちらには求められるのかもしれない。
たとえば花見会場に前もって赴き、読むべき重要な本を花びらに一文字残らず書き写しておけば、花見をしながら自然に本の内容が頭に入ってくるので、楽しみを奪われたという禍根を残すことなく活字の世界へといざなうことができる。
そうした工夫をする気配がないまま「本が読まれない」ことを嘆くインテリたちの怠慢ぶりには、いささか疑問を覚えずにはいられない。