2019/03/27

道端にたたずむ石地蔵を横目に見ながら歩いていると、心の中に民話の「笠地蔵」が思い浮かばない者はいないだろう。
現代人である我々には、地蔵にかぶせるべき笠の持ち合わせはない。今時の気候であればそんな必要もないだろうが、それでももし今空から雪が降っていて、地面に深く積もりつつある状況だったらと想定した場合、自分は地蔵に何をしてやれるだろうかと思い描かざるを得ない。
近くのコンビニから笠ならぬ「ビニール傘」でも買い込んで、一本ずつ開いて地蔵に立てかけてやるというのが一般的な答えだろうか。
いささか風情に欠けるのは確かだが、それもまた民話を現代によみがえらせたときに生じる、ひとつの滑稽な効果として受け入れる準備は私にはある。
むしろ多くの人は地蔵の存在など見ぬふりをして、その前を行き過ぎるのではないか。それは手間や金を惜しむというより、石地蔵への親しみの感情が現代では失われており、道端にある人の形をした不気味な石という認識でしかないということだ。
そんなものにうかつに近づいたら、何か呪いのような超自然的な災厄が降りかかるのでは? という恐れから視線を遠くの看板や富士山などに向け、むりやり気をそらせることでその場をやり過ごす。そんな現代人にとって笠地蔵の民話もまた恐怖の対象でしかないだろう。雪降る晩に列をなして自宅にじわじわと近づいてくる石地蔵のことなど、考えたくもないというのが本音だ。
実際、信仰する者の減少した地蔵たちは首がない状態で放置されたり、陰惨な外見になっているものも多い。そんな不気味な地蔵に親切にしたところで、どのみち蛇の死骸とか事故現場の花などをかき集めてプレゼントしてくれるのが関の山だ。そんな気がしてならないとき、私の心からすでに笠地蔵たちは退場しているのである。