2019/08/09

我が家は東京のはずれのほうにあって、ここからは東京タワーを見ることはできない。
だが東京タワーが見えない場所が「東京」を名乗っているのは、何とも矛盾した話ではないだろうか?
もちろん、地上を離れてなんらかの手段で空中に浮かび、そのまま上空高くへ到達すればここからも東京タワーを見ることができるだろう。
だが我が家の上空はるかな高みに浮かび上がったとき、そこはまだ「我が家」と云っていいのか? というのもまた大いに疑問に思えるところなのだ。
せいぜい地上に建てられたビルの屋上などに出かけて行って、そこから他の建物や山、地平線などに邪魔されず東京タワーを眺められることが、その土地が東京であるための条件なのかもしれない。
その場合、我が家はさっそく失格して東京都民という資格をはく奪され、次からは都知事選挙への招待状も二度と届かないことだろう。
もっとも、私はこれまで都知事選挙への投票をしたことは一度もないが、それは有権者としての貴重な役割を放棄しているというわけではなく、投票所へ行こうとするとなぜか周囲が白い霧に包まれて何も見えなくなり、奇妙なうめき声や含み笑いのようなものが聞こえてきて、気がつくと東京タワーの展望台に立っているのだ。
もちろん、そこから見えるのは東京の街並みだ。東京の過去から未来へと続く景色を一望に収めているような興奮に包まれ、私は展望台の壁に「徳川家康」と書いて帰ってきた。
だが家康が都知事に復帰したという話は聞かないから、私の一票はつねに無駄に終わっているのだろう。