2019/08/30

わが家の近くには小さなトンネルがある。抜けるのに三十秒もかからないほどの短さだが、そのトンネルをくぐった後は映画を一本見てきたかのような充実感が味わえた。
べつにトンネルの壁に映像が投影されていたり、ラスコー洞窟のように壁画などが描かれているわけではない。ただの薄暗い、長時間滞在したら気が滅入ることが確実な空間にすぎない。
にもかかわらず、私は通り抜けるたびに様々な感情とその変化を経験し、しかもその都度経験される感情の内容が異なっているのだ。
だからトンネルを抜けるたびに映画を一本見た気分になるだけでなく、その映画は毎回新作で、以前と同じ映画が一本もないのである。
だが、文系のインテリである私に云えるのはここまでだ。この先の真相究明には理系の知性の協力が不可欠だと感じた私は、近所の理系の大学に通う学生らしき若い男をコンビニで見つけると、事情を話して現地まで同行してもらった。
「なるほど、これは興味深いトンネルだ……」
さっそくトンネル内を何往復かしてきた男は感慨深げに腕を組んでそうつぶやいた。
「通り抜けるたびに何か別種の経験をしているという感覚が、確かにありますね。例えるなら、総武線の各駅停車に乗って出かけた秋葉原から、内回りの山手線に乗って帰ってきたかのような感覚です。そしてもう一度通り抜けるときは外回りの山手線になっていて、帰りは岩本町まで歩いてそこから都営新宿線なんですよ」
男の話を聞きながら私は軽いショックを受け、しだいに気分が重く沈んでいくのを感じた。
彼の的確な電車の例えと較べれば、私の例えはきわめて曖昧なうえに、映画といういかにも文系人間が趣味を誇示しがちなジャンルに閉じこもることで、周囲に何らかの目配せをしていることが感じられる。
いわば「わかる奴だけにわかればいい」という内輪向けの態度が露骨なのだ。
「こんなことだから文系不要論といった耳の痛い世論がネットをにぎわせることになるのだろう。やはり文系側からもっと社会に対して開かれた情報発信をするべきであり、難解で気取った雰囲気のアート系映画ばかり持て囃すのを即刻中止し、家族みんなで楽しめる動物の出てくるアニメなどについて積極的に語るべきではないだろうか?」
そのように口に出して云ってみると、たちまち視界が晴れ渡るようにすっきりするのがわかった。
私はトンネル調査を続ける男をその場に残して、楽しげにどこかへと走り去った。