2019/08/11

バスに乗っていると、つい「このバスはどこへ行くのだろう?」ということが気になってしまう。
電車でも同じことだ。「この電車はどこへ行くのだろう?」などと考えることなく、ただその乗り物の乗り心地や窓の外を流れる景色に身を委ねるのが、余裕のある生き方だということは頭ではわかっている。
それでもやはり、その乗り物が自分の行きたい場所(最寄りの駅だったり、にぎやかな繁華街だったり)に着けばいいなと心の中で願わずにいられないし、もしまったく期待外れの場所(荒れ果てた墓地や、周囲にコンビニもない沼のほとり)などに到着した挙句「終点なので降りて下さい」などと放り出されたら、不安と憤りでろくに口もきけなくなってしまう気がする。
今日はバスに乗りながら、そんなことをずっと考え続けていた。余裕を持った自由な精神で生きたいという気持ちと、せかせかと時間に追われて生きなければ、この砂漠のような無慈悲な世界ではたちまち野垂れ死にしてしまうという焦る気持ちの間の葛藤が、私の頭をいっぱいにしていた。
「こんなことでは車窓の景色もまったく楽しめないし、停留所のアナウンスも耳を素通りしてしまうから、たとえ目的の土地を通りかかったとしても気づけぬままだ。結局のところ、どっちつかずというのが一番問題なのだ。態度をはっきりさせることで自ずと結果の白黒も見えてきて、今後に反省を生かせるというわけだ」
次の瞬間、私は何かに突き動かされたように降車ボタンを押していた。
この瞬時の決断によって停車したバス停で降りてみたところ、周囲はなんとなく楽しげな明るい雰囲気に包まれており、この判断は正解だったのだと自画自賛したくなってくる。
思わず小躍りしながら周囲を散策してみたが、しだいに第一印象とは裏腹にそこはずいぶん物寂しく、殺風景な土地であり、かすかに異臭も漂っていることが明らかになってきた。
私はがっかりして肩を落としたものの、けっして後悔はしていない。
今回の反省を今後に生かすことで、次からはもっとましな判断ができるようになること。それがおそらく人生の醍醐味なのだ。