2019/08/14

市民プールは市民のためにあるプールだ。今日も大勢の市民がつめたい水しぶきを上げて、太陽の真下でそれぞれの半裸で過ごす時間を楽しんでいる。
「やはり夏は大変に気温が上がり、できるだけ衣類を減らしたうえで大量の水を身にまとうことでもしなければ、到底やりすごせないのかもしれないな……」
金網越しにプールの様子を眺めていた人物が、そうぽつりと漏らすのを耳にした。視線を向けると、それはとくに知り合いでもない平凡な身なりの老婆で、私は返事をする必要を感じなかったのでそのまま無視を続けた。
すると老婆は、私が黙って話に耳を傾けているとでも思ったのだろうか? それからしだいに饒舌になりながら言葉を紡いでいったのだ。
「数え切れないほどの夏を、私は経験したと云えるだろう。そのどれひとつをとっても、暑さという共通点を逃れるものはない。有体に云って、夏などどれも似たり寄ったりなのだ。にもかかわらず、今年の夏は一度しか来ないという矛盾が、我々の行動に奇妙な影を落としている気がする。適当に涼しい恰好をして秋が来るのを待つ、というのでは耐えられないような渇望が、あらかじめ我々の精神に巣食っているのだ。この夏ならではの事件を期待し、必死にそこらじゅうを駆け巡った挙句、熱中症で倒れて寝込んでしまう。そのときうなされる夢の中でだけ、他では経験できない唯一の夏の場面が出現するような気がする。だとすれば、夏特有の体調不良もあながちマイナス面しかないとも限らない。ゴミ捨て場で宝を拾うような経験が、もっとも宝石を輝かせるのもまた事実なのだ」
まるで熱に浮かされたように語り続ける老婆は、日傘はおろか帽子もかぶってはいなかった。そのため熱中症によるうわ言のようなものをつぶやいている可能性がある、と思われても仕方なかっただろう。実際、その様子を遠くから見ていた誰かが親切にも119番通報したらしい。
やがて救急車が到着すると、溶けきった蝋燭のように生気をなくした老婆は担架で運ばれていった。その表情はきわめて満足げなものであった。
確かにこの夏だけの稀有な思い出を、彼女は刻み付けることができたのだろう。