2020/08/02

今日は私の誕生日である。五十二歳という一生で最も素晴らしい年齢になった記念に、朝早く起きた私は滞納している税金を納付するため近所のコンビニへと向かった。昨日役所からカラフルな封筒に「大至急開封」と印字されたものが届いたので、行政からのひと足早い誕生日プレゼントだろうか? と喜びを隠しきれぬ表情で開封してみたところ、「差押予告通知書」と書かれた味気ない紙が一枚収められていただけだったのだ。
一瞬表情を曇らせた私だったが、「誕生日という一年に一度しかない祝福されるべき日に、家賃や生活費などという下らないもののことは頭から一掃し、真っ先に税金を払うという心躍るような経験をひさしぶりに味わわせてあげたい」という行政からの真心のようなものに気づいた私は、今すぐ税金を納付したい気持ちをどうにか抑えて布団に入るとすやすやと眠った。
そして今朝、一年ぶりに税金を納めることで財布も心も羽毛のように軽くなった私はふと「この世には生活を切り詰めて税金を納付することの喜びに目覚めていない人が、まだまだ多いのかもしれない」という事実に気づいて愕然とした。たとえコロナウィルスの猛威によって収入が減少したり、先行きがまるで見通せない不安の中で体が震えていたとしても、なけなしの貯金を下ろし、なければ借金をするなどさまざまな工夫で現金を用意して気前よく税金を納付すれば、たちまち気分が高揚し、梅雨明けの空のようになんとも晴れやかな表情になれることを、私は道行く人に訴えるために次々と仁王立ちして行く手を遮り、対話をしようと試みた。だがソーシャルディスタンスが叫ばれる時節柄だろうか? 立ち止まって熱心に耳を傾けてくれる人はほとんどおらず、私の訴えは周囲の蝉の声と同じように無視されたのだ。
しかしながら人々の表情がマスクに覆われて窺い知れなかったことを思えば、素通りした人たちはみな最近税金を払ったばかりで、その喜びで満面の笑みを浮かべていた可能性もある。だとすれば、私の演説など無用の長物ということになり、かれらに無視されたことに対して何の恨みもないのだが。

2019/11/16

全290話、第一部完結とします。
滝のように流れ落ちる290個の脳味噌をお楽しみください。

2019/11/15

突然何も思い出せないことに気づいた私は、たまたま近くの壁に書いてあった番号に電話してみることにした。
「もしもし」
自分の発した声さえ、聞き覚えのない他人のもののようだった。
「はい、ご用件は何でしょう」
電話のむこうから聞こえてきた声は、どうやら中年男性らしいどこか温かみのある低い声だ。
そのなんとも心地いい響きに聞き入ってしまい、つい無言になってしまう。
「もしかして、何も思い出せないから電話してみたんじゃありませんか?」
電話の声がそう続けたので、私は驚きのあまり悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「どうやら図星のようですね。私のところには、どういうわけかあなたのような人からの電話がちょくちょく掛かってくるのですよ」
落ち着いた口調でそう述べると、男性は口元に浮かべた笑みが目に浮かぶような声でさらに続ける。
「これも何かの縁というか、神様が自分に与えてくれた役割じゃないか? と思っているところがありましてね。いや、そんなのは思い上がりも甚だしいとは自覚しています。ただ、実際に困っている方からの電話がこうして掛かってくる以上、私は私にできることはしてさしあげるまでです。そのことに迷いはございません」
非常に慣れた様子で、男性は滔々と語ってくれた。たしかに同様の経験を何度も積んでいることが感じられ、信頼できる相手だと私には思えた。
私も誰か困っている人を見かけたら、この男性のように親身になって接してあげたいものだ。そうすることが相手のためになるというより、自分自身への慰めや、赦しのようなものをいくらかもたらすような気がしてならないのだ。私にしか頼るすべのない、まるで濁流に流される木の葉のような人との出会いは、一種の奇跡のようなものとして私の人生に小さな光をともすことだろう。
そんなことを考えるのに夢中で、電話の声に対して無言を保ってしまったためか、いつのまにか通話は切れて「ツーツー」という単調な音が耳に流れ込んでいた。
親切なわりには意外と短気な相手だったことに少々驚きつつ、
「私だったらどんなに相手が無言でもいきなり電話を切ることはしない。いくらでも気長に受話器に耳をあてながら待ってあげることだろう」
そう思った私は、実際に思ったことをそのまま口に出してみた。
すると口を開いた瞬間に蠅が飛び込んできてしまったため、最後まで言葉を発することはできなかった。
蠅を吐き出すことに必死で、それどころではなかったのである。

2019/11/09

狭い庭のような場所に自分が立っていることに気づいた。見覚えのない場所だから、もし本当に庭なら他人の家の庭なのだろう。
そう思うと私は、すぐさまその場を脱出しなければという思いに駆られた。こんなところを見つかって通報されたなら、何の言い訳も思いつかないことは明白だからだ。
ちょっと珍しい蝶が飛んでいたので思わず後をついてきてしまったんです、とでも述べるつもりだろうか? 彼は昆虫になど何の興味もないはずだ、と友人たちは口をそろえて証言するだろう。じっさい私は外を歩いていて昆虫が目の前をよこぎっても無視するし、衣服などに止まった場合はすぐに払い落としてしまうのだ。
やはりこんな場所はとっとと退散すべきだ。そう思って出口らしき方向へ歩いていくと、赤ら顔で坊主頭の恐ろしい形相の人物が仁王立ちしていた。
この庭の持ち主なのだろうか? だとしたら何かマシな言い訳を考えなければとすばやく頭を巡らせていると、その人物は妙に甲高い声でこう云った。
「他人の土地に無断で侵入するとはどういうつもりだ!」
その声がまるで人間を真似た小動物の声のようだったので妙に思い、よく見ると赤ら顔の人物の体は手のひらに乗りそうなコンパクトなサイズしかなかった。
あまりに恐ろしい形相だったことと、こちらに無断侵入の後ろめたさがあるため相手が巨大に見えたのだろう。実際にはおもちゃ屋で売っていそうなかわいらしい存在だと気づくと、私は急に気が大きくなってこう云い返した。
「ちょっと声が小さくて聞き取れませんでした。すみませんがもう一度云ってもらえますか?」
するとその小人のようなものは赤ら顔をさらに真っ赤にして、何やらキーキーとわめきたてた。もはやその言葉はガラスをこすった音のように本当に聞き取れなくなっていた。
「そう興奮せず落ち着いて、もっとゆっくり喋ってくださいよ。大声を出すのと喚き散らすのは全く別のことですからね」
私がことさら優しい口調でそう諭すと、赤ら顔の人物は頭から湯気が出そうなほど興奮しつつ、地面に落ちているものを片っ端から私に向けて投げつけ始めた。
だがそれらは小指の先ほどもない小石ばかりで、しかも私には届かずすべて地面に落下したのだ。
その哀れな様子を眺めることに飽きた頃には、私は相手をからかうことにもすっかり興味を失っていた。無言のまま足早にその土地を抜け出すとき、何か柔らかいものを踏んだような気もするが、とくに靴の裏を確かめることもなくそのまま道を進んだのである。
庭を出ると周囲には我が家の近所とはまるで違う、初めて見る住宅地の景色が広がっていた。それを夢中で眺めていると「次はどんな建物が目の前に現れるのだろう?」と気が気ではなく、他のことはもはやどうでもよかったのだ。

2019/11/08

目の前の現実がふっと遠のき、かわりに過去のさまざまな幻影がまるで今ここで演じられている人形劇のような生々しさで、視界に迫ってくることがないだろうか。
そんなときはすみやかに冷たい水で顔を洗うなどして、過去の亡霊を振り払うのが賢明な行動だ。冬の朝などはつい適温に温められたぬるま湯などで顔を洗うことを選びがちだが、それでは幻影は立ち去るどころか、ますます勢いを増して自分を飲み込んでいくことになるはず。人形劇だったものがすべて生身の俳優の演じる舞台にかわり、やがて舞台が消えて本物の現実の出来事のように、自室の中で過去の場面が展開するようになったら、もう現在と過去の区別さえつかない悲惨な人生の始まりである。
親しい人を不審者と間違えて棍棒で殴打してしまったことがある人なら、おそらくその思い出したくない出来事が何度もフラッシュバックした経験があるものだ。あきらかに過去の出来事とわかっているうちはいいが、本当に目の前にもう一度不審者が現れて、それを棍棒で殴打したら床に倒れたのはいいが、顔を見たら親しい友人だったという経験をそっくり同じようにくり返してしまう(ように当人には感じられる)幻影などというものは、人生において百害あって一利なし。まったく必要のないものにかかわらず、なぜか多くの人が取りつかれてしまうタイプの幻影だという話である。
私はそんな話を聞くたびに、自分はまだそのような幻影に囚われていないが、いつ恐ろしい幻影に支配される人生へと切り替わるか全く予想できない、ということもしみじみと感じる。だから自宅には一台も給湯器を取り付けず、顔を洗うときは常に冷たい水が出るようにしてある。その程度の工夫は単なる気休めにしかならないかもしれないが、日常を心穏やかに過ごすには、ちょっとしたお守りのようなものが必要なこともあるのだ。
交通安全のお守りに大金を払うのは馬鹿げているが、お守りの一つも持たずに運転する人の車には、なるべく同乗したくないものである。

2019/11/02

つかのまの人生。煙草の煙が部屋の天井を一周して、ほどけて見えなくなるまでの時間のような、このぼんやりしたひとときを誰もが過ごしている。
いっけん忙しくバタバタと立ち働いているように見える人も、心の奥では煙草の煙がほどけていくのをぼんやりと眺める時間を過ごしており、それは気がつけば尽きてしまうわずかな月日なのだ。
そんなことを思っていると、ただ一人で胸に秘めているだけではなく「誰かとこのことを心ゆくまで語り合いたい」という気持ちがふつふつとわいてきた。だが家の中には私しかいないので、話し相手をさがすにはどこか公園などのにぎやかな場所へ移動しなくてはならない。
それは少々面倒だなと思った私は、何か話相手になるものを家の中で探すことにした。
いつか誰かに土産物としてもらった、ちいさな木彫りの人形。お菓子のおまけとしてついてきたのを捨て忘れたような、プラスチック製の何らかのアニメのキャラクター。およそそんなものくらいしか見つからなかったが、何もない虚空に向かってしゃべるよりはましだ。そう思って私はテーブルに置いたそれらに向かって、さっそく話しかけはじめたのだ。
「人生というのはほんのつかのまのうちに過ぎていくものだ。昼寝の際に見る夢のような、じつにはかないものだということが近頃は実感できる。それは私が年齢を重ねて、人生というアルバムに記念写真を貼りつけてきた結果、それらの枚数のあまりの少なさに思わずため息をついていることと関係があるのかもしれない……」
まるで自分のセリフに合わせたかのように、このとき私は深くため息を漏らした。だが熱心に話に聞き入っているかに見えた人形たちは、とくにため息をつくこともなく無反応のままだった。
一瞬立腹しかけた私だが、
「人形は呼吸をしていないのだからため息をつくことは不可能なのだ」
そんな事実にすぐに気づき、冷静になって話の続きを再開した。
だが何を語っても相槌さえ打つこともなく、まして自分の意見を述べる気配のない存在が相手ではまるで自分が聞くべき価値のない下らない話を無理やり聞かせているような錯覚を覚えてしまう。
そこで私は瞼を閉じて、話の続きを語り続けた。
すると私が矢継ぎ早に繰り出す言葉に表情豊かに反応し、さかんにうなずいて同意を示してくれる人形たちの姿が目に浮かんできた。
私はうれしさのあまり自分の表情が綻ぶのを感じた。近くに鏡はないし、目を閉じている以上もちろん、自分でそれを見ることはできないのだが。

2019/10/25

すごいスピードで路地を通り抜けていく車がいた。車には誰も乗っていなかった。
「あれが噂の自動運転というやつか」
私は感心してそうつぶやいたのだが、ちょうどいいタイミングで向こうから歩いてきた男に即座に否定された。
「たまたま運転手の顔や着ている洋服の色が、座席と同じ色だっただけですよ。つまり保護色というやつです」
それから私と男は近くの公園のベンチに座り、この国における自動運転の未来について語り合った。
だが二人とも自動車免許を持ち合わせていないせいか、あまり実りのある対話はできなかったように思う。
失意のうちに私たちは公園の出口で別れ、それぞれの家路についた。
今では相手の顔も覚えていないのである。

2019/10/14

煙草をやめたのでかわりに口に入れるものが欲しい、と佐藤さんは云っていた。佐藤さんとは初対面だったので、彼の真意ははかりかねた。
私に「何か煙草がわりに口にできるものを提供せよ」と暗に要求しているのだろうか? そんな要求にこたえる義務はないのだが、どんなときでも人の期待を裏切らない有能な人物でありたいのも事実だ。だがそのへんに落ちている石ころを拾って「これでも口に入れてみては?」と提案しても、佐藤さんはあまり喜ばないような気がする。彼の服装や髪形などから推察するに、人目を気にする見栄っ張りなタイプであるような気がしたのだ。
そんなタイプの男性は、地面に落ちている石ころを口に入れることを躊躇する傾向がある。もちろん昆虫などはもっと抵抗を覚えるのではないか。
「カナブンを口に入れると勝手に動き回るので、煙草なんかよりずっと楽しめるし経済的で、ニコチンも含まれないから健康にもいいですよ」
そんなアドバイスをしたいという欲求が湧き起こったのだが、もちろん経済的な利点はともかく、煙草のかわりにカナブンを口にくわえるのが「健康にいい」というエビデンスは存在しない。それを実践した人がいまだ確認できていない以上、安全性を保障するデータは当然世の中に見当たらず、そんないかがわしい「カナブンを口にくわえること」を無責任に勧めるのは倫理的に許されることではないのだ。
もっとも、どれほど信用するに足るデータを揃えたところで、佐藤さんが最近の都会っ子に多い「虫嫌い」の男性だったらすべては無駄に終わるのだ。そんな危険な賭けに打って出るような気持ちは今のところ私にもなかった。それだけの情熱を傾けるべき相手なのかどうかは、今後の佐藤さんとのつきあいの中で判断していくしかないだろう。
とはいえ、佐藤さんとこれからも何らかの温かみのある交流を続けていくことが決まったわけではなく、こうしてじっと真意を探るべく覗き込む彼の目が無情にも何度も逸らされ、そのたびにせっせと正面に回ってふたたび覗き込まなければならない現状を鑑みるに、その可能性は極めて低いと云えるのかもしれない。
だが私は佐藤さんが禁煙を続けることには健康上の理由から賛成だ。せめてそのことだけは伝えたいと思い、私は彼の伏せられた目の奥へと必死にテレパシーのようなものを送り続けた。

2019/10/11

なんとなく、電車に乗ることが最適解のような気がした。そこで私はひさしぶりに駅に向かったのだが、駅というのはどうしてあんなに人が大勢いるのだろう? まったく馬鹿げた騒ぎっぷりで、もっとみんなが思い思いの方角に向かって自由に歩いてゆき、人口が分散したなら今より住みやすい社会になるように思えてならなかった。
そこで手近なところにいた若い女性にその旨を述べたところ、思いのほか強い同意を得られ、
「私はもう窮屈な電車に押し込められて目的地に向かうのをやめ、自由に気の向くままに歩いてゆきます!」
そう叫ぶと彼女は駅舎を飛び出して、とくに何もないほうの北口の路地へと消えていった。
だが北口の道路をしばらく歩いていけば、巨大な霊園に突き当たることは間違いないのだ。
「昼間でも不気味な雰囲気の漂う霊園に迷い込むくらいなら、たとえ混雑していて不快でも電車に乗ったほうが数倍マシだろう」
私はすぐさまそう判断したのだが、残念なことに私の声はすでに姿の見えない女性には届かなかったようだ。
だが若いうちは少々のあやまちも含めて、おおいに冒険して経験を深めるのがいいだろう。その結果として、軌道修正してごく保守的なつまらない人格に収まってしまうのだとしても、心の中にかつての冒険者である自分を持っているかどうかで、人間の価値はまるで違ったものになるはずだ。
そのような真の価値の見分けがつく人物との出会いもまた、人生の醍醐味のひとつなのである。
もちろん、墓場で道に迷って行き倒れてしまってはそんな出会いの機会は望むべくもない。
私は、今では顔も思い出せない若い女性の無事を祈らずにはいられなかった。

2019/10/02

変なところから手が出ていたので、どうしようかと思ったが、握手をする気にもなれなかった。
なのでそのまま見守ることにしたのである。
云い忘れたが、手は私の住むアパートの床下を外から覗ける穴があるでしょう? あそこから出ていたのだ。
死体ではない証拠に、時々ぶらぶらと動いてどうにも手持無沙汰な様子を見せた。
石でもぶつけてみようかと考えたが、それも気の毒だと思ってしばらく静観することにしたのだ。
二時間ほどが経過した。
あまりにも何の変化もないので、私はついうとうとしてしまったらしい。
はっとして顔を上げると、床下から出ていた手はどこにも見当たらなかった。
しゃがんで穴を覗いてみたが、暗くて奥のほうはまるでどうなっているのかわからない。
こんなことなら石をぶつけてみればよかった、と一度は思ったが、あわてて心の中で訂正した。
「こんなことならあの誰のものとも知れぬ手と、固い握手を交わしておけばよかった」
念のため、そう声にも出して云ってみたのだが、誰か聞いてくれた人はいただろうか?
自分を尊敬すべき紳士だと信じられなくなったら、それからの人生は手放したベビーカーが急な坂を下るようにひたすら落ちていく一方だ。
人生は意外と長いものだから、投げやりになるべきではないのである。
とはいえ、人生は長いと思って油断しているとあっという間に終了してしまうので、ある程度の投げやりさは必要かもしれない。
だが、短いつもりでいると思いのほか長いのが人生だ。
夕日がまだ沈まずに、私とアパートの壁を照らし続けている。

2019/09/03

世の人々がみずからドブ川に身を投げるような真似を止めないのは、まったく気の毒なことだと云わざるを得ない。
そこがまるで清潔なプールであるかのようにすいすいと気持ちよさそうに泳いでみたり、ファミレスのドリンクバーのような気安さでドブの水をがぶ飲みしている者までいる始末。
だが「そんな不潔なドブで泳いだり、水を飲んだら病気になりますよ」などとうっかり忠告すれば、思いがけない反応が返ってくるはずだ。
「おれたちのプールをドブ呼ばわりするのか!?」
「ドリンクバーの魅力がわからないなんて、なんて気の毒な人なんだろうね……」
違うんです、それはプールでもドリンクバーでもなくただのドブなんですよと必死に訴えても、かれらの神経を逆撫でするばかりであり、いっそう意固地にドブに浸かり続けようとするのは明白なのだ。
もし相手が動物ならむりやり首輪をつけて鎖につなぐなど、少々強引な手段に訴えても一部の過激な動物愛護団体以外は見て見ぬふりをしてくれるだろう。
だが相手が人間である以上、いくら善意に基づくものであれ、当人の合意を得ないまま首輪などで自由を拘束するのは、どんな穏健派の人権団体でも見逃さない最悪の犯罪行為だ。
「やはりどんなに遠回りに思えても、地道に話し合いを重ねて説得する以外に道はないのだ。言葉が通じないことをもどかしく感じたら、一緒にスポーツをして汗を流すとか、河川敷などで大鍋でカレーをつくり、青空の下でともに味わうなどの交流を通じて少しずつ心を通わせていく中で、まるでテレパシーのように真意が伝わる瞬間に賭けるしかない」
私がそう思うと同時に、ふとどこからか旨そうなカレーの匂いが流れてきた。
「よし! 今夜の我が家のメニューは野菜のたっぷり入った栄養満点のカレーライスだぞ!」
そう叫んだ私は、たまたま視界に入ったスーパーの入口へと飛び込んでいった。

2019/09/02

家の前の道路は、どこまでも南へ向かって続いていた。もちろん北へも伸びているのだが、北はすぐに行き止まりになって、このあたりの地主の家が覗く塀へと突き当たる。その家や塀をじっと見つめるのが目的なら話は別だが、そうでない場合は南へ向かって歩き出すことになるのだ。
南というのは、北半球に住む我々にとっては太陽が輝く方角を意味している。なんとなく心が浮かれてくるような魅力的な方角だ。つい足取りも軽くなり、まるで靴など履いていないかのように無音で、地面から数センチ浮いているかのような歩みを続けてしまう。
「このまま勢いが衰えずに南に突き進んだら、いずれ赤道を通り越して南半球に達してしまうぞ。そうなると太陽は北へ居場所を移し、私はいつのまにか日差しに背を向けてだんだんと寒くなっていく道を進んで行くことになるのだが、今さら方向転換は不可能だ……」
そして行き着く先は、南極の氷に覆われた極寒の世界だ。そう思うと私はすっかり暗い気分になり、できるだけそのことを考えないようにするため頭の中で「きれいな声で鳴く緑色の美しい鳥」の姿を思い浮かべた。
その夢のような歌声に聞き惚れていると、ふと鳴き声が止んだので不審に思って目を向けると、鳥は地面に横たわってぴくりとも動かなかった。
やはり南極のとびきりの冷気で凍りついてしまったのだろうか。
そう思うと私もそろそろ覚悟を決めなければと思い、おもむろにシャツの襟を合わせたのだった。

2019/09/01

九月になった。九月は苦月だという連想が働くせいだろうか? なんとなくこれからは人生に苦しみだけがとぎれることなく延々と続き、顔はひたすら苦悶の表情だけを浮かべていくことになるという予感がしてならなかった。
あいにく手元に鏡がなかったため、映して確かめることはできなかったが、手で触ってみるとたしかに非常に険しい、まるで重い岩のようなものを担がされている人の表情のようなものが感じられた。
実際に肩には何も担いでなどいないので、これは心が岩に該当するような何らかの重荷を負っていることの証拠だろう。だが、それは一体何なのか? 人生が苦悩と絶望に彩られた悪夢のようなものだというのは今さら指摘するまでもないが、そんな常識に属することをわざわざ再確認して顔を歪ませる理由など、果たして存在するのだろうか?
思えば、夏が終わってこれからしだいに冬へと近づいていく日々が続くことが、まるで人生の比喩のように感じられて私の心を暗い影で覆うのかもしれない。
だが冬の後には春が来て、ふたたび夏が訪れるのだということを思い出すべきなのだ。たとえこのまま何もいいことのない人生が冬の雪の下に埋もれてしまっても、そこからまた生まれ変わって別の人生が始まり、その新たな人生の春から夏にかけては素晴らしいことが次々に実現し、冬に備えて立派な暖炉のある暖かい家などに住むことも可能かもしれないのだ。
そう気がついた私は思わずガッツポーズを取った。
この次の人生は最高のシーズンにするぞ! そう口に出すと表情もすっかり幸福そうな笑顔に変わったことが、手で触れてみたらすぐにわかった。

2019/08/31

昼ご飯をお腹いっぱい食べたために、私は急速に眠気を感じ始めていた。
もちろん昼ご飯をお腹いっぱい食べたことだけが、眠気を感じている原因だとは限らない。それどころか昼食と眠気には何も因果関係がない可能性さえあるのだ。
ご飯を腹いっぱい食べたら必ず眠くなるのだとすれば、昼休み後の午後のオフィスはすやすやという寝息や、グーグーといういびきの音に包まれた仮眠室のような空間に変わり果ててしまう。
そんな空間はもはやオフィスとしての機能を喪失している。上司や同僚がむにゃむにゃと寝言をつぶやいている横では、誰もまともに労働する気力など湧かないだろう。
長く停滞し今後も浮上する見込みのない日本経済が、そんな真昼間から寝静まった呑気なオフィスに居場所を与えてくれるとは、到底思えないのだ。
だからそんなオフィスがもし実在していたとしても、とっくにこの世から抹消されていることが予想される。
つまりきわめて現実味の薄い与太話に過ぎず、こんな話は即刻打ち切って本題に返らなければなるまい。
だが私の眠気はすでに限界の域に達しており、この先を書き綴ることはもはや困難になりつつあった。
眠たさの原因は昼ご飯をお腹いっぱい食べたことなのだが、もちろんそれだけが眠気の原因であるとは限らない。
人はとくにこれといった理由もなく睡魔に襲われることがあるのだ。

2019/08/30

わが家の近くには小さなトンネルがある。抜けるのに三十秒もかからないほどの短さだが、そのトンネルをくぐった後は映画を一本見てきたかのような充実感が味わえた。
べつにトンネルの壁に映像が投影されていたり、ラスコー洞窟のように壁画などが描かれているわけではない。ただの薄暗い、長時間滞在したら気が滅入ることが確実な空間にすぎない。
にもかかわらず、私は通り抜けるたびに様々な感情とその変化を経験し、しかもその都度経験される感情の内容が異なっているのだ。
だからトンネルを抜けるたびに映画を一本見た気分になるだけでなく、その映画は毎回新作で、以前と同じ映画が一本もないのである。
だが、文系のインテリである私に云えるのはここまでだ。この先の真相究明には理系の知性の協力が不可欠だと感じた私は、近所の理系の大学に通う学生らしき若い男をコンビニで見つけると、事情を話して現地まで同行してもらった。
「なるほど、これは興味深いトンネルだ……」
さっそくトンネル内を何往復かしてきた男は感慨深げに腕を組んでそうつぶやいた。
「通り抜けるたびに何か別種の経験をしているという感覚が、確かにありますね。例えるなら、総武線の各駅停車に乗って出かけた秋葉原から、内回りの山手線に乗って帰ってきたかのような感覚です。そしてもう一度通り抜けるときは外回りの山手線になっていて、帰りは岩本町まで歩いてそこから都営新宿線なんですよ」
男の話を聞きながら私は軽いショックを受け、しだいに気分が重く沈んでいくのを感じた。
彼の的確な電車の例えと較べれば、私の例えはきわめて曖昧なうえに、映画といういかにも文系人間が趣味を誇示しがちなジャンルに閉じこもることで、周囲に何らかの目配せをしていることが感じられる。
いわば「わかる奴だけにわかればいい」という内輪向けの態度が露骨なのだ。
「こんなことだから文系不要論といった耳の痛い世論がネットをにぎわせることになるのだろう。やはり文系側からもっと社会に対して開かれた情報発信をするべきであり、難解で気取った雰囲気のアート系映画ばかり持て囃すのを即刻中止し、家族みんなで楽しめる動物の出てくるアニメなどについて積極的に語るべきではないだろうか?」
そのように口に出して云ってみると、たちまち視界が晴れ渡るようにすっきりするのがわかった。
私はトンネル調査を続ける男をその場に残して、楽しげにどこかへと走り去った。

2019/08/29

古い知人であるA氏が個展を開くという案内が届いていた。
さっそくギャラリーを訪れてみると、品のいい室内に展示された絵はいずれもA氏らしい個性のみられる鮮烈なもので、私は時の経つのも忘れて絵の世界に没入してしまった。
A氏の絵にはどれも何らかの生き物が描かれている。それは蟻から鯨まで、大小さまざまな生物がどこか優しい視線を感じさせるタッチでくっきりとキャンバスにうつしとられたものだ。
「こんな素晴らしい絵を飾るのにふさわしい部屋に、できれば私も住みたいものだ。今のボロアパートの壁に飾ったのでは、せっかくの傑作も中学生が美術部の活動で描いた絵と大差ないように見えてしまう」
もしもどこかの湖畔などに別荘を持つことがあれば、その壁に飾るのにもっともふさわしいのはどの絵だろう? いつしか私はそんな目で作品を比較し始めていた。
「こちらのライオンの絵は、留守にしがちな別荘の番をさせておくにふさわしいような気がする。だが、湖畔という立地を考慮するとこの亀の絵も捨てがたいと思える」
私は次々と目移りしていく絵たちのすばらしさに嬉しい悲鳴を上げ、驚いたギャラリーの従業員があわてて様子を見にくるというハプニングも発生した。
「やれやれ、どうやら早急に結論を出すことは不可能なようだ。今日のところはいったん帰宅し、次にこの場を訪れるまでの宿題としておこう」
そう考えて私はギャラリーを後にしたのだが、その後A氏の個展のことはすっかり忘れてしまい、今日思い出してギャラリーを再訪してみたところ既に展示は終了していた。
だがかわりに始まっていた別な作家の個展が非常に魅力的な作品ばかりで、
「やはり別荘を手に入れたときはA氏の絵ではなく、この作家の絵を飾ることにしよう」
さっそく私はそう心に決めたのだった。

2019/08/28

この社会では毎日さまざまな場所で誰かが働き、また別の誰かは休暇を取ったり、休憩時間に入るなどして交替で世の中を支えていると云われている。
私のような、大きく分けてインテリに分類されるタイプの人間はそうした世の中の営みの中では、まるで一年中休暇を取っている結構なご身分だと勘違いされやすい。
むろん、私が公園のベンチに座って目を閉じ、気持ちいいそよ風に吹かれているのは別に昼寝をしているわけではなく、我々がどれだけ努力しても逃れられないこの世の苦しみを、少しでも軽減させる方法を求めて真実への思索の旅に出ているのだ。
「だが、今日もまたこの旅は徒労に終わったようだ。それでもひとつひとつ道を塗りつぶしていくような地道な努力を続けなくては、未来の人々へ手渡すべきバトンを途中で投げ捨ててしまうも同然なのだ」
そう神妙につぶやきながら腰を上げると、辺りはすっかり暗くなっており、目を閉じていたときと景色はさほど変わりがない。
そこへ誰かが散歩させているらしい一匹の小犬が、尾を振りながら近づいてくるのが見えた。
あまりにも可愛らしい小犬だったため、いったいどんな人が飼い主なのだろう? きっと心優しくて可愛いものが大好きな人物なのだと思い、興味津々で視線を向けた。
だが長く伸びたリードはまるで凧揚げの糸のようにまっすぐ公園の外へとのびて、そのまま闇の中へ消えていた。
「この犬の飼い主は可愛い犬を飼うような人ではあるが、散歩へ連れていくのが面倒なばかりにとても長く伸びるリードを入手し、家の中にいるままで犬を散歩させているのかもしれない。だとすれば、その人は可愛い物好きではあっても、けっして心優しいとは云えないだろう。それらの美質は、一人の人間に同居しているとは限らないのだ……」
私はそう考えた途端に、目の前で尾を振る小犬までがなんとなく汚らわしく思えてきて、そのまま頭を撫でたりすることなく無視して公園を出ていった。
今にして思えば、大人げない行動だったと思わないでもないが。

2019/08/27

どこか高い塔のような場所に登って、そこから世界を見渡したいという欲望が、あなたにはないだろうか?
私にはある。それがどんな辺鄙な場所にある塔だとしても、そこから世界が見渡せるなら電車やバスを乗り継ぎ、最後には徒歩で山道を歩いてでもたどり着きたいという気持ちがあるのだ。
だがそんな辺鄙な場所にある塔は、どれほど高くとも周囲の景色は単調で、いくら眺めがいいとはいえ、何もかもが遠くにありすぎて意味がないということにもなりかねない。
だからやはり登るべき塔は都会とまでは云わずとも、都心から電車で一時間以内の場所にあるのが望ましいような気がする。
そんな塔になら、わざわざ早起きして出かけてでも、日没まで心ゆくまでそこから世界を見渡したいというのが偽らざる本音だ。
みなさんもそんな私の気持ちを理解して、賛同してもらえるような気がするが、
「それなら、休みの日に駅などで待ち合わせて一緒に塔に登りましょう」
などと提案する気持ちになれるかというと、なかなかそうはいかないのが現実だ。
やはり「高い塔から世界を見渡す」という経験は、大勢で押しかけてわいわいと騒ぎながらするものだとは、どうしても思えない。一人で展望台に立って、無言でじっと眺めるのがふさわしいということはどうしても譲れない点だ。
だからこちらから質問しておいて大変申し訳ないのだが、高い塔に登ってそこから世界を見渡したいという欲望をあなたがお持ちの場合、
「勝手に登って、眺めて下さい」
としか私からは云うことができない。
そのことが今は心苦しく、窓の景色もどこか物憂げに見えてしまう。

2019/08/26

あでやかに着飾った人々が、道を繁華街のほうへと歩いていくのが見える。ただでさえ人の多い繁華街では、なぜかさらに人を集めるようなイベントが盛んに行われるようだ。だから着飾った人たちが田畑や空き地の多い方角とは反対方向へ歩いていくのは、いつもの見慣れた光景だと云える。
たしかに、田畑や空き地の多い方角へと着飾った人の群れが移動していた場合、人は落ち着かない気持ちになるものだ。人の少ない土地だからこそ、人を集めたいという願いからなけなしの知恵と予算を集めてイベントを敢行し、それが成功したなら喜ばしいことのはずだ。だが私たちは心のどこかで、賑やかな繁華街がさらに賑やかになることを願い、寂れた土地は寂れたままでいてほしいと願っているのかもしれない。
心の中にいったん書き上げられた地図が、むやみに書き換えられることを人は好まない。そんなことをすれば気分がそわそわして、寄る辺ないような気持ちになってしまう。それがいくら正しい変化の道筋だとわかっていても、人々が新たな道への一歩を踏み出すことを躊躇してしまう理由がここにある。毎日部屋の模様替えをしていたら精神的に不安定になってしまい、生活に支障をきたすことを我々は本能的に察知しているのだ。
たしかに、あんな着飾った人たちがわが家の周辺をたむろしていたら、私はジャージ姿でコンビニへ弁当を買いに行くことに羞恥を覚え、やがて食料が尽きて餓死してしまうだろう。そう思えばなんとなくこの世の地図が今日も昨日と変わらぬ配置に収まっていることに、ほっと一安心していることを否定はしきれない。
つまり私もまた、寂れた土地が寂れたまま見捨てられていくことを無意識に望んでいる人々の一員なのだ。
そう思うとどっと疲労が押し寄せてきて、私は床に水たまりのように横たわって眠りつづけた。
やがて目が覚めるとすっかり元気になっていた私は、台所で焼きそばを調理し始めた。

2019/08/25

買い物に行こうと思って玄関を出たところ、思いのほか天気が良くないようで先ほど干したばかりの洗濯物のことが気になった。
「これでは外出中にひと雨きてもおかしくないぞ。洗濯物は室内に移動させておくべきだろうか? だがそれでは、いくらまだ夏が続いているとはいえ、乾くまでの時間が遅れて洗濯物に雑菌が繁殖し、いやな臭いを発し始めてしまうかもしれない。そんなことは御免だが、雨に濡れた場合は乾く時間はさらに先延ばしになるわけだ。なんとも悩ましい話だ……」
私は考えごとに夢中になっていたため、道の真ん中に立ち止まって周囲のことが全く目に入らなくなっていたらしい。
そこへ猛スピードで突っ込んできたトラックがいたからたまらない。おそらく運転手は運転しながらスマホでかわいらしい動物の動画などを眺めていたのだろう。その動物愛護精神があだとなり、トラックは私を空高く跳ね飛ばしたのだ。
だが、これははたして偶然なのだろうか? それとも迷う私に何か超越的な存在が答えを差し出してくれたのかもしれないが、私はちょうどアパートの軒先の自分の洗濯物の前にまるで体操選手のように着地したのだった。
そこへぽつぽつと、懸念していた雨が落ち始めた。私はあわてて洗濯物を取り込むと、抱えて部屋の中へと飛び込んだ。
「少しでも雨の心配があるときは洗濯物は室内に干すべきだ。そのためにも部屋干し用の洗剤を今度から買っておくべきだと、あの動物好きな運転手は私に伝えたかったのかもしれない。いささかその伝え方が強引ではあったが……」
私はあちこち痛む体をさすりながらそうつぶやいた。