2019/09/01

九月になった。九月は苦月だという連想が働くせいだろうか? なんとなくこれからは人生に苦しみだけがとぎれることなく延々と続き、顔はひたすら苦悶の表情だけを浮かべていくことになるという予感がしてならなかった。
あいにく手元に鏡がなかったため、映して確かめることはできなかったが、手で触ってみるとたしかに非常に険しい、まるで重い岩のようなものを担がされている人の表情のようなものが感じられた。
実際に肩には何も担いでなどいないので、これは心が岩に該当するような何らかの重荷を負っていることの証拠だろう。だが、それは一体何なのか? 人生が苦悩と絶望に彩られた悪夢のようなものだというのは今さら指摘するまでもないが、そんな常識に属することをわざわざ再確認して顔を歪ませる理由など、果たして存在するのだろうか?
思えば、夏が終わってこれからしだいに冬へと近づいていく日々が続くことが、まるで人生の比喩のように感じられて私の心を暗い影で覆うのかもしれない。
だが冬の後には春が来て、ふたたび夏が訪れるのだということを思い出すべきなのだ。たとえこのまま何もいいことのない人生が冬の雪の下に埋もれてしまっても、そこからまた生まれ変わって別の人生が始まり、その新たな人生の春から夏にかけては素晴らしいことが次々に実現し、冬に備えて立派な暖炉のある暖かい家などに住むことも可能かもしれないのだ。
そう気がついた私は思わずガッツポーズを取った。
この次の人生は最高のシーズンにするぞ! そう口に出すと表情もすっかり幸福そうな笑顔に変わったことが、手で触れてみたらすぐにわかった。