2019/11/08

目の前の現実がふっと遠のき、かわりに過去のさまざまな幻影がまるで今ここで演じられている人形劇のような生々しさで、視界に迫ってくることがないだろうか。
そんなときはすみやかに冷たい水で顔を洗うなどして、過去の亡霊を振り払うのが賢明な行動だ。冬の朝などはつい適温に温められたぬるま湯などで顔を洗うことを選びがちだが、それでは幻影は立ち去るどころか、ますます勢いを増して自分を飲み込んでいくことになるはず。人形劇だったものがすべて生身の俳優の演じる舞台にかわり、やがて舞台が消えて本物の現実の出来事のように、自室の中で過去の場面が展開するようになったら、もう現在と過去の区別さえつかない悲惨な人生の始まりである。
親しい人を不審者と間違えて棍棒で殴打してしまったことがある人なら、おそらくその思い出したくない出来事が何度もフラッシュバックした経験があるものだ。あきらかに過去の出来事とわかっているうちはいいが、本当に目の前にもう一度不審者が現れて、それを棍棒で殴打したら床に倒れたのはいいが、顔を見たら親しい友人だったという経験をそっくり同じようにくり返してしまう(ように当人には感じられる)幻影などというものは、人生において百害あって一利なし。まったく必要のないものにかかわらず、なぜか多くの人が取りつかれてしまうタイプの幻影だという話である。
私はそんな話を聞くたびに、自分はまだそのような幻影に囚われていないが、いつ恐ろしい幻影に支配される人生へと切り替わるか全く予想できない、ということもしみじみと感じる。だから自宅には一台も給湯器を取り付けず、顔を洗うときは常に冷たい水が出るようにしてある。その程度の工夫は単なる気休めにしかならないかもしれないが、日常を心穏やかに過ごすには、ちょっとしたお守りのようなものが必要なこともあるのだ。
交通安全のお守りに大金を払うのは馬鹿げているが、お守りの一つも持たずに運転する人の車には、なるべく同乗したくないものである。