2019/11/15

突然何も思い出せないことに気づいた私は、たまたま近くの壁に書いてあった番号に電話してみることにした。
「もしもし」
自分の発した声さえ、聞き覚えのない他人のもののようだった。
「はい、ご用件は何でしょう」
電話のむこうから聞こえてきた声は、どうやら中年男性らしいどこか温かみのある低い声だ。
そのなんとも心地いい響きに聞き入ってしまい、つい無言になってしまう。
「もしかして、何も思い出せないから電話してみたんじゃありませんか?」
電話の声がそう続けたので、私は驚きのあまり悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「どうやら図星のようですね。私のところには、どういうわけかあなたのような人からの電話がちょくちょく掛かってくるのですよ」
落ち着いた口調でそう述べると、男性は口元に浮かべた笑みが目に浮かぶような声でさらに続ける。
「これも何かの縁というか、神様が自分に与えてくれた役割じゃないか? と思っているところがありましてね。いや、そんなのは思い上がりも甚だしいとは自覚しています。ただ、実際に困っている方からの電話がこうして掛かってくる以上、私は私にできることはしてさしあげるまでです。そのことに迷いはございません」
非常に慣れた様子で、男性は滔々と語ってくれた。たしかに同様の経験を何度も積んでいることが感じられ、信頼できる相手だと私には思えた。
私も誰か困っている人を見かけたら、この男性のように親身になって接してあげたいものだ。そうすることが相手のためになるというより、自分自身への慰めや、赦しのようなものをいくらかもたらすような気がしてならないのだ。私にしか頼るすべのない、まるで濁流に流される木の葉のような人との出会いは、一種の奇跡のようなものとして私の人生に小さな光をともすことだろう。
そんなことを考えるのに夢中で、電話の声に対して無言を保ってしまったためか、いつのまにか通話は切れて「ツーツー」という単調な音が耳に流れ込んでいた。
親切なわりには意外と短気な相手だったことに少々驚きつつ、
「私だったらどんなに相手が無言でもいきなり電話を切ることはしない。いくらでも気長に受話器に耳をあてながら待ってあげることだろう」
そう思った私は、実際に思ったことをそのまま口に出してみた。
すると口を開いた瞬間に蠅が飛び込んできてしまったため、最後まで言葉を発することはできなかった。
蠅を吐き出すことに必死で、それどころではなかったのである。