2019/01/20

海の家で食べるかき氷や焼きそばの味は格別なものだ。子供の頃に食べたそうした味が突然口の中によみがえり、いてもたってもいられなくなった私は近所に住む顔見知りの老人に金を借りると、猛スピードで走る電車で海へとやってきた。
しかしながら、真冬の砂浜には肝心の海の家がひとつも見当たらなかった。単に閉店しているのではなく、建物ごと撤去されてしまっていてがらんとした殺風景な地面があるだけ。これではかき氷や焼きそばに舌鼓を打つことはおろか、子供の頃の思い出に浸るのさえ不可能ではないか?
そのとき水平線の彼方から何かがゆっくりとこちらに接近する様子が目に入った。船にしては変わったシルエットだったので、興味を持って観察しているとそれは砂浜まで数百メートルの距離まで近づいてきた。どうやら海の家が漂流しているようで、中で水着姿の女がトウモロコシを齧っている姿が確認できた。
私が「おーい」と叫んで手を振ると、女もまたトウモロコシを食べながら手を振り返してくれた。その瞬間、波はふたたび海の家を沖の方へ運び始め、そのまま逆再生の映像のように女ごと水平線のむこうへ連れ去ったのだ。
海の家が砂浜にあることの儚さ、その奇跡のように短い時間の尊さについて知った私は、海から帰還するとさっそく顔見知りの老人にも報告した。
老人はいたく感銘を受けたようで「電車賃は返していただかなくて結構です。とてもいいお話を聞かせてくれたお礼に差し上げます」そう笑顔で語ると、夕闇の公園へと消えていった。