2019/07/09

午前二時四十五分頃、近所の田中ビルから女の人の叫び声が聞こえた。
田中ビルはべつに廃墟というわけではないが、上の方の階はテナント募集の看板が窓辺にずっと掲げられたままになっている。おそらく夜中は内部に誰もいないであろう。
不審に思って様子を見にいくと、最上階の窓に明かりが灯っているのが見えた。
どうやら人がいるのは確かなようで、殺された女の幽霊の叫び声のようなものを聞いてしまったわけではないらしい。ほっとして私がアパートに戻ろうとしていると、ふたたび叫び声が聞こえてきた。
「幽霊じゃないならべつに放っておいてもいいような気がするが、こんな深夜に近所迷惑ではあるし、寝ているご近所さんが目を覚ましたら気の毒だから注意しに行くか」
そう思って私はビルの階段を上って最上階へと向かった。
階段はまるで豆腐を重ねてつくったにせものみたいで、一歩ごとに崩れそうになって私はあわてて手すりにしがみついた。
だが手すりもまた豆腐のように不自然に柔らかいため、私は二階にさえ到着することができないまま上ることを断念したのである。
「そういえば夕ご飯の途中でお腹がいっぱいになり、食べかけの冷奴を冷蔵庫に保管してあるはず。思わぬ運動をして小腹が空いたことだし、夜食にあれを食べよう」
そう突然考えた私はすばやくビルを出るとアパートにもどって冷蔵庫のドアを開けた。
だが冷蔵庫には食べかけの冷奴などは存在せず、 ただ無意味に冷たい風が顔面に吹き付けてきただけだった。
おそらく冷奴を食べ残したのは夢の中での出来事だったのだ。夢の中のエピソードを現実と取り違えてしまって、失敗することは時々あった。先日は夢の中で採用されたハンバーガー屋に元気良く挨拶をして出勤してしまい、思わぬ恥をかかされたものだ。
そんなことが起きないよう、目覚めの一杯のコーヒーを習慣づけてみてはいかがだろうか? カフェインの力で頭の中の靄を晴らしていきながら、夢の世界を隅のほうに片付けて今日一日を頑張るための心構えをつくる。
そんな稀有な役割が、一杯のコーヒーにはあると思うのである。