2019/07/07

なんとなく遠くに見える山のかたちをじっと眺めてしまい、時間が過ぎていくのも忘れていることがあるものだ。
どんな都会でも、ビルのすき間などに目を凝らせば山の稜線の一つや二つは目に入ってくる。それらは電車やバスなどを乗り継げば麓までたどり着けるはずだが、たいていはそんな気を起こすこともなく、ただ日々の暮らしの背景としてなんとなく見過ごされてしまう。
たまに無意識のうちに目を向けると、意外なほどの近さに迫ってくるように感じられ、これからちょっと足をのばして頂上を目指してみようかな? という気まぐれな心がうずく場合もあるだろう。
だが都会の近郊にある山であっても、素人が何の装備もなく気軽に登れるような山は限られている。たいていは見た目よりも遠くにあり、つまりそれだけ巨大で自然の神秘を抱え込んだ山だということなのだ。
「この年齢になるまで、山についてほとんど何も知らずに生きてきたのはもったいなかったような気がする。もっと若いうちに関心を向ければ、その有り余る体力を武器にさまざまな山に足を向けることができ、いっぱしの登山家気取りで年を重ねるという人生もありえたのかもしれない」
私は住宅街の果てにそびえる名も知らぬ山を見つめながら、そんな心の声を口からこぼれさせていた。
「だが今からでも遅くはない、むしろ今がラストチャンスであり、この瞬間に電車に飛び乗ってあの見事な稜線に向かって直進すれば自分にも『山とともにある人生』が開けるという、その最後の舞台に今立っているのではないか?」
そう感じた私は我慢できずに駅に向かって駆けだすと、ちょうどホームにすべり込んできた電車に迷わず乗り込んだ。
まもなく走り出した電車の窓から私は先ほどの山を発見した。やはり見事なシルエットであり、最初に登るべき山としてふさわしい雰囲気の姿に思えた。しだいに山が近づいてくることに胸は高鳴り、興奮で私は何度も窓を猿のように拳で殴りつけては、車掌に注意されたほどだった。
だがそのうち山のシルエットは接近することをやめて、なぜか次第に遠ざかり始めた。
「おい待てよ! 山はそっちじゃないだろ!? よく前を見て走れよ!」
とまどいのあまり運転席に向かって大声で叫ぶ私をあっさり無視した電車は、やがて終点の海辺の駅へと到着したのである。
「馬鹿な……。どこでボタンを掛け違ってしまったのか?」
がっくりと肩を落とす私の鼻に、どこからともなく入り込んだ潮の香がつんとした刺激を与えた。
それはまるでこの人生でついに山と出会い損ねた私の悲しみが、涙になろうとする兆しのように感じられた。