2019/07/03

「悩みに悩み抜いた末に、とうとう自分らしい服装にたどり着いたあの男性が颯爽とその姿を披露してくれるかもしれない」
そんな期待がこらえきれなくなった私は、無意識のうちに昨日の家の前に立っていた。
だがそこは昨日と同じ家とは思えないほど、どこか荒廃した雰囲気が漂っており、よく見れば窓ガラスも割れてまるで暴徒に襲撃された家のようだ。
「昨日もそれほど仔細に観察したわけではないが、たぶん窓ガラスは無事だったはず。いったい何が起こったというのだろうか……」
ガラスの割れた部分から覗き込むと、部屋の床にはカップ麺の容器やペットボトルなどが無造作に散らばっていた。それは襲撃された結果というより、そこで生活していた人間の内面の荒んだ様を現しているような気がした。
「するとガラスが割れているのは、昨日の男性が部屋から衝動的に飛び出していった痕なのかもしれない」
私が過度に「自分らしさ」の表現を求めてしまった結果、追い詰められて自暴自棄になった彼は夜中に「何か珍しい野生動物でも迷い込んだのか?」と近所の人が思うような奇声を上げながら部屋から飛び出し、そのまますごい勢いで夜の闇に紛れてしまったのだろうか。
だとすれば、私は少し責任を感じざるを得なかった。とくに親しい間柄でもないのに、むやみにプレッシャーをかけたことは素直に反省すべきところだ。
だが、あの男性は本当にこの窓から飛び出していったのだろうか? もしそうでないなら、せっかく真面目に反省したところですべて無駄になってしまう。私はまず在宅の確認をしようと玄関前に立った。
インターフォンを押しても反応がないので、ドアをノックした。それでも反応がないので今度は大声で名前を呼んでみることにした。
だが苗字を知らないことに気づき、表札を探したのだが見当たらない。玄関まわりの、いかにも表札がありそうな場所はすべて空白だったのだ。
「名前を呼ぶことのできない人間など、私にとっては存在しないのと同じことだ。私は極度に記憶力が悪く、とくに人の顔はまったく憶えられないと云ってもいいい。脳内で人間の顔はだいたい三種類くらいに分類され、誰かを思い出そうとするとその中の一種類が思い浮かぶだけだ。それは生身の人間というより、登場人物の限定された四コマ漫画のキャラクターのようなものだ。昨日ここに立っていたあの男性も、三種類中のタイプBに分類されることしかわからない。それは陰気でおどおどしたタイプで、世間を逆恨みしていそうなあまり関わり合いになりたくないタイプだ。そんな人たちにも実際には隠れた別な側面があり、優しいマイホームパパだったり、才能ある売れっ子イラストレーターだったりするのかもしれない。そんなことをつい想像しないこともないが、他人の私生活に深入りするのは下衆な行為だと思う。現実に生きている人間は、私の想像の中で遊ばせるための人形ではないのだから」