2019/07/14

「私は秘密を愛する人間なものですから」
繁華街の雑踏を歩いているつもりだったが、いつのまにか私は妙に寂しい路地に入っていた。そこで誰かに話しかけられたので振り返ると、みすぼらしい身なりの老婆が立っていたのだ。
「秘密の中で暮らすことが生き甲斐とさえ云っていい。大きな秘密はそこで一日過ごしても退屈しないし、今ある秘密がまた新しい秘密を連れてきたりして、勝手に育ってさえいくものです。うっかりするとそこから出られなくなることもあるほどですよ」
話の内容は独り言としか思えないものだが、あきらかに私を見て語りかけているのだ。私はとまどいつつ興味をひかれ、老婆の話に聞き入った。
「うっかり電車で寝過ごして、知らない駅で目を覚ます。そんなことが誰にでもありますが、秘密も同じことです。秘密の中で生きていることを忘れ、気がついたらまるで知らない秘密を生きている自分を発見する……そんな経験があることを想像できますか? このときもはや秘密は私の秘密と云える根拠を失っている。誰のものとも見定めがたい秘密が私を抱え込み、ひたすら翻弄するばかりで出口など見つかるあてがないのです。でもそのことが不幸だと感じるのは秘密を愛したことがない人間です。私たちのような者は、もはや秘密の一部となってしまったわが身に恍惚となり、出口を探すふりをしながら心の中では、一生この彷徨が続けばいいと願っているのですよ。こんな境遇を望むばかりに、わざと『電車で寝過ごす』ことをくりかえす人もいるくらいですから」
老婆は云いたいことをすべて云い終えたのか、にっこり微笑むと無言になった。
その背後にはシャッターの下りた空き店舗らしい建物がある。シャッターには貼り紙が貼られていたのだが、そこには閉店のお知らせといった文言ではなく大きな筆文字で黒々と、
「平成→令和→平成」
とのみ書かれていた。
どういう意味なのだろう。これは老婆の口にした「秘密」と何か関係のあるものなのだろうか?
そのことを目の前で微笑む本人に訊ねてみたいところだったが、私はすぐに断念した。
老婆は恍惚とした表情で虚ろな目をして、そこに私の存在など映っていなかったのである。